イエスの洗礼は有効?
マルコによる福音1,7-11
2003.1.11記
その時、洗礼者ヨハネは、こう述べ伝えた。「私よりも優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履き物の紐を解く値打ちもない。私は、水であなた達に洗礼を授けるが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、”霊”が鳩のようにご自分に降ってくるのをご覧になった。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という声が天から聞こえた。
マルコは簡略に記しているが、マタイには次のような描写がある。
「…私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、 私のところへ来られたのですか。」
ヨハネの戸惑いは当然だ。
ヨハネでなくても、イエスを救い主と仰ぐキリスト者にとって ヘブライ書の著者が言うように、イエスは、 「罪を犯されなかったが、 あらゆる点において、わたしたちと同様」(4,15)であって
イエスは罪無きお方。
で、イエスさま あなたのの洗礼は果たして有効?
洗礼についてのヨハネの概念にも、僕らの公教要理の教えにも 当てはまらないので無効なのでは?
ウ、イヤ、つまり、その~ ワシの洗礼が有効かどうかよりもアンタのはどうじゃな?
もちろん有効ですとも! もっとも、ボクは幼児洗礼ですが、信者達を見ていると、時々、
あの人の洗礼は有効だったか疑うことはありますが…。
ウ~ム、なるほどね~。ア、イヤ、人のことはどうでもよろしい。 今のアンタは、洗礼を受けて、司祭にもなっておるが アンタ自身はどうじゃね? ウン、その、つまり、ワシが洗礼のとき聞いた 「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」 つまり、おん父のこの言葉、それは、おん父が感極まって 思わず口にされた喜びの言葉だったのだが、 それが私を生涯生かし続けた言葉になったのだったが、 アンタはどうかね?
ア、イヤ、その~、信者が増えると神父さん達は喜びますけどね。 … ア、ボクのことでしたね。
ウーン、アノ~、「愛する子」というのは何とか…、 でも「私の心に適う者」となるとチョット自信がありませんが…。
じゃー、アンタの洗礼は半分だけ有効ということかな。 実はじゃな、洗礼を受けるというのは、
「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という言葉を 生涯味わい続けておん父が喜んでくれる子として生きよう と、大人になって人生が複雑になればなるほど、 その気持ちを育てていくことなんじゃよ。 そんなことをみんなに言いたかったのがワシの人生であって、 みんなが受けていた洗礼式に臨んだのもそのことを知らせる ボクの宣教活動の第一歩だったのじゃ。ハ~、ドウモ。