時が満ちて過去が清算される!
マルコによる福音1,14-20
2003.1.25記
ヨハネがとらえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人は、すぐに、網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、船の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになた。この二人も父ゼベダイを雇い人達と一緒に船に残して、イエスの後についていった。
あたふたと毎日が過ぎていきます。
若い若いと思っていたらさすがに年を感じるようになりました。
今思うとあっという間でしたね…。
過ぎた時への思いは人さまざま。
イエスが30年間の沈黙を破って発した第一声が 「時は満ちた」だったとは!
何かにフン切りをつけて、「よし!」と立ち上がるイメージだ。
30年をイエスがどのように評価したのか差しで聞いてみたいと思う。
司祭に叙階されたのが30才。そして、司祭生活、30年。
張り切りすぎるというのは勇み足もおおいもので 「郡山君は会議で発言するのは五年早いね」と「諭されたのも懐かしい。
五年経ったんだから誰に遠慮がいるもんか、と 気合いを入れ、相手かまわずかみつき、食いつき言いたい放題。 ふと気がついてみると、 三人四人と後輩が育っているではないか。
ああ、恥ずかしい!全てを払拭したい衝動に駆られてしまうのだが…。
そんな恥を忍びながらもう少し子細に過去を眺めると…。
すると、ボクの被害者?とも呼ぶべき様々な表情の人々が まさに走馬燈のように次から次へと現れては消え、消えては現れる。
何度も何度も多くの出会いを繰り返しながら 多くの場合、ボクへの好意に満ちた笑顔で、
しかし ある時はボクから受けた傷に顔をゆがめ、 ある時は失望に顔を曇らせ、 ある時は怒りに声を荒げ それでも 一人一人がボクの背中をぽんと押してくれているのだ。
そのたびに、ボクは、有頂天になり、 ある時は罪の意識に心を痛めながらも、 うんと頷いて
ある時は歩みをゆるめ、ある時は立ち止まって胸を打ち、 ある時は深呼吸をして心を静めて
よし!、と気合いを入れて前進する。
そして、その人々にまつわる甘美な出来事も苦い体験も どれもみんなボクの前進を阻むどころかみんなが応援団だったとは。
30年の司祭生活の結論だ。
ああ、それにしても、 ボクの時が満ちていくときのなんとスマートでないことか!
それにしても、 清算されないものなんてなさそうだね。