信者が咲かす大輪の花
ルカによる福音2,22-40
2003.2.3記
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はイエスを主に捧げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて産まれる男子はみな、主のために聖別される」と書いてあるからである。
(略)
親子は主の律法に定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
信者の花。
たくましく、知恵に満ち、恵みに包まれて 幼子は、主に捧げられて聖別された。
信者も洗礼の時、聖香油を塗られて聖別されて神の者となった。
幼子が聖別された者として咲かせた人生の花。
たくましく、知恵に満ち、恵みに包まれて これこそが、信者が咲かすべき花。
花一:たくましく
私はあの人とはやっていけません。
嫌がらせというか、寒いのに、ドアは開けっ放し。
換気のために少しだけ窓を開けると「寒~い!」と言って閉める。
関係ないのに人の話に割って入り、 人前で反論できないような嫌みを言う。
などなど…もうキリがありません!
たくましい相手にお手上げの信者がやってきた。
あたしはいちいち反応しないで無視することにしました。
あんまりひどいと思ったら負けずに言い返すことにしました。
新手を編み出したもう一人の信者がやってきた。
たくましく強い、としか言いようがない。
花二:知恵に満ち
お手上げは信者らしくない。
かといって、新手を編み出したところで
それぐらいなら信者でなくても誰でもやれる。
いや、どうせ新手を編み出すなら、もっと効果的なのがいい。
すこし荒っぽく、野蛮な感じもするが、新手の知恵として試す価値はある。
相手の顔を思い描きながら、 拳を振り上げ、罵声を浴びせ、怒りのタケをぶっつけ、 そして、呪い、思いつく限りの罵詈雑言の数々…。
本人に言えば血を流すことになるかも知れない。
人に言えば、ただごとではないが、それでもただのグチ。
一人で、神に向かって言えば、立派な「嘆きの祈り」となる。
安心して試すといい。
もっとも、出入りの多い教会だと困るが、ひなびた教会が近くにあれば最高。
そんな環境にないなら、チラシの裏に書き付け、まるめて壁にぶっつけ 足で踏みつけてもいい。ビリビリと手で裂きくずかごに放り込むのもいい。 まだ、言い足りないと感じたら、気が済むまで繰り返すのがミソ。 つまり、使用前使用後の自分の気持ちの変化を 子細に観察して、気持ちが少し軽くなったとしたらシメタものだ。
こうして、感情の風船を破裂させる快感を味わえたら最高。 誰にも迷惑をかけない自助努力にやみつきになること請け合う。 しかし、もし、罪悪感に襲われるなら、その必要は全くないのだが、 どうしてもイヤなら即中止しないといけない。
花三:恵みに包まれて
否定的な感情をため込んで苦しむ姿を見るのは 父である神にとっても苦しく、耐え難いことなのだ。
新手の知恵を遣ってみて成功すれば、恵みの世界への切符を 手にしたと思っていい。
あなたが、自分の感情をもてあまし、人にコボしているうちは 信者の花を咲かせるどころではない。
いずれにしろ、道のりは 必ずしも平坦ではないのだが、 あの手この手でなんとか大輪の花を咲かせたいと思う。 信者が咲かしたい大輪の花こそ「恵みに包まれている現実に気づく」こと。
すでに咲かせていると思うあなたも一度検証する価値がある。