イエスは言われた。「ま、いいか!」
マルコによる福音1,40-45
2003.2.15記
重い皮膚病を患っている人が、イエスのとことに来てひざまずいて願い、「御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手をさしのべてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して言われた。「誰にも何も話さないように気をつけなさい。ただ、祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために捧げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広めはじめた。それで、イエスはもはや公然と町にはいることが出来ず、町の外の人のいないところにおられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まってきた。
公然と町に入れなくなったイエスは、「まったく!…」
吐き捨てるように独り言(ご)ちながら、「人のいないところにおられた」のか。
それとも、私立探偵ハーパーのようにいかなる状況にも沈着冷静。
次の妙手を思いめぐらしておられたのか。
いずれも違う!
「ま、いいか!」そう言って天を仰いだだけだったのだ。
その顔には、驚きも、失望もなく、ましてや怒りの感情もなく、 むしろ、思うにまかせない現実を達観している風なゆとりというか 穏やかな受容の笑みさえ見えたのだ。
なぜそう断言できるのか?
何故と言って、それだとボク自身が救われるように感じるからだ。 若気の至りで…。
誰もが一つや二つ思い当たることがあると思う。 ボクには数限りない。思い起こせば恥ずかしことばかりだ。
未熟と言えばそれまでだが、 正義の味方気取りで、しかも、ハーパーのように暴く人がいないことをいいことに 司祭の職権を乱用したとしか思えない言葉による乱暴狼藉の数々。
どれだけ多くの司祭や信者に迷惑をかけたことか。 重い皮膚病を癒された人の比ではない。
それにもかかわらず、咎められることもなく、 裁かれているとも感じることなく、 行け行けどんどんの司祭生活であったのは何故か。 それは、きっと、迷惑をかけるたんびに 重箱の隅をほじくるように神経質にならず、「ま、いいか!」と 目をつぶって貰ったからなのだ。
実は、「ま、いいか!」の一言が言えなくて、 教会当局も、信者自身も、 人を許さず、自分自身をも許さず、いかに体力を消耗してきたことか。
イエスの「ま、いいか!」こそ福音だったことに気づく人は未だ多くはない。 … ま、いいか!