信者のなんでだろう~?
イザヤの預言43,18-19,21-22,24-25
2003.2.23記
主は言われる。初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなた達はそれを悟らないのか。
私は荒れ野に道をしき、砂漠に大河を流れさせる。私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らねばならない。しかし、ヤコブよ、あなたは私を呼ばず、イスラエルよ、あなたは私を重荷とした。
あなたは、あなたの罪のために私を苦しめ、あなたの悪のために、私に重荷を負わせた。私、この私は、私自身のためにあなた背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。
宮崎での集まりへの車中のラジオ。
うるさくギターをかき鳴らしながら、「なんでだろう~?なんでだろう~?…」
歌のような、語りのような、決まった歌詞があるような、即興のような
なんでだろう~?、が延々と続いていた。
たわいないことから深刻なことまで、 なんでだろう~?と、疑問とも揶揄(やゆ)とも知れない声を上げることで 暗い表情の日本の社会にそれなりの笑いを提供しているらしい。
そして、幼稚園の子供たちが大声でやっている、 なんでだろう~?の実体が分かって納得した。
聖書の神様、イスラエルを自分で選んでおいて ろくに育てられない。なんでだろう~?
神様なのに「私を苦しめ、…私に重荷を負わせた」と嘆く。
なんでだろう~?、なんでだろう~?。
神様に一言ケチをつけておいて、本文を読み返すと、 青文字の言葉が心にとまった。
まず、「荒れ野に道」「砂漠に大河」。
これを劇的変化の比喩としたとき、そのように目を見張るほど、 事態が大きく好転したという体験をすぐに思い出せないが、 変化の兆しが「芽生えている」と感じたことは多くある。
そして、「新しいことを私は行う」と言われる神様が、 腕まくりをして意気込んでおられる頼もしい姿に心躍らせ、 独り納得して気を取り直し、やる気が蘇った思い出は数知れない。
で、少なくても、自分が自分らしく生きていこうとするとき、 客観的に事柄が明確にならなくても、身の回りがガタガタづくめでも、 なんでだろう~?の呪縛からは解放される。
なんでだろう~?
一つは、自分の現実を砂漠だ!と嘆きたくなるとき、 イスラエルの民と神との密月が砂漠の40年だった事実?に 思いをはせるとき、大河とまではいかなくても、 かすかな光や道筋が見えてくるから不思議だ。
なんでだろう~?さあ~?
この密月回帰は、
何も、自分の現実が砂漠ほどにひどくなくても有効。
この作業さえ忘れなければ、
神様の父性という焦点が、遙か彼方からボクという一点に絞られ、
やがて遠くの父性がいつの間にかボク一人のものになってしまうから不思議だ。
そして、やがて、父の「栄誉を語」り始めることになるのだ。
なんでだろ~?それが父の夢だから。