大きな声では言えないが…もえくぼ
ホセアの預言2,16・17・21-22
2003.3.3記
主は言われる。私は彼女(イスラエル)を荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そこで彼女は私に応える。おとめであったとき、エジプトの地から上ってきた日のように。
私は、あなたととこしえの契りを結ぶ。私は、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。私はあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる。
誰かの奥さんを見て、ダンナも大変だろうなあ、と思ったことはある。
もちろん、全く余計なお世話だが…。
第三者の自分と波長が合おうが合うまいが全く関係ないことなんだが、
実は、全く関係ない、余計なお世話の領域は必ずしもはっきりしない。
それで、「大変だろうなあ」、が「ひどい人だなあ」になり、
「あ~いう人」になり、かねてのおつき合いも、
そうした見解のもとでのある種の緊張関係で結ばれ、
要するに、うち解けない、上手な付き合いのコツを身につけることになる。
持って回った言い方をしたが、
もっと、端的に言うと、誰かの奥さんであろうと無かろうと、
今日の場合、あなたが、「あ~いう人」との決めつけを大なり小なりしていることが大事。
そういう体験のない人には今日のお話しは不用。
もっとも、あなたがキリスト信者ないしはそれに準ずる立場にいる人なら
そういう体験を沢山しているとの自覚が明瞭なほど嬉しい。
たとえ、そうで無くても今日の話しは読む価値がある。
こんな言い方は、尊大な感じがするので、
上記のホセア書を再読玩味する必要があると言い換えよう。
で、本題に入るとして…。
あなたに上記のような体験を強いる?信者がいたとしたら、
信じられないかも知れないが、
その人こそ、主が人混みを避けて、そっと荒れ野に連れ出し、
耳元に愛の言葉を囁き、不相応な自分を恥じながらもプロポーズを受けて
晴れてカップルとなったその人なのだ。
「あれでも信者!?」「あれでも修道者!?」「あれで、司祭?!」
そんな現実があなたを覆い尽くしても、
決して忘れて欲しくないもう一つの現実がある。
「主は、その人に首ったけ。アバタモエクボ。」
この神秘に立ち返ることなしに、あなたのあらゆる人間関係
そして、連れ出したオカタとの愛の関係が改善されることはない。
で、何よりも、もう一つの現実を忘れてはいけない。
あなた自身「連れ出されたその人」。
妻に裏切られるという辛い体験と、裏切った妻を赦し再び受け入れたホセアからのメッセージ。