あなたの良心はもはやない?
使徒ペトロの手紙 1ペトロ3.18-22
2003.3.8記
愛する皆さん、キリストは、罪のためにただ一度苦しまれました。
正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神のもとに導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に、箱船が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱船に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今や、イエス・キリストの復活によってあなた方を救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に昇って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
ブッシュ大統領は、「私には信仰がある」と公言して、彼の計画のため、イラクの人々のため祈ると言った。演説を聴いて思わず叫んでしまった。「何だこりゃっ!」
「どんな人にも良心というものがある」と言ったりするように、どんな人にも最後に期待するのはその人の良心ということになっている。しかし、ブッシュ大統領の場合だと、「私には良心はないが、信仰ならある」と言いたいのかもしれない。
人を揶揄(やゆ)するのは良くないが、信仰の名の下に、教会がいかに多くの過ちを犯してきたかは枚挙にいとまがない。アメリカでのテロ以来耳にするようになった、「聖戦」がそうだし、十字軍はまさにその思想にキリスト者の良心が閉ざされた悲劇だった。良心転じて悪心となった。
今日のペトロの手紙の中心は、「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることです」につきる。他の箇所は意味不明でもいい。この箇所だけは、しっかり味わいたい。
いろいろの信仰があるが、キリストの名を口にする信者にとって、「神に正しい良心を願い求める」謙虚さを忘れるなら、小さな日々の「聖戦」を終わらせることは出来ないことを知るべきだ。
生まれながらにして誰もがもっている良心の声。それに従ってさえいれば人生を踏み外すことは、まずないほどの優れものであるにもかかわらず、無視されても、チクチクする程度で、大変控えめなのがあだとなって、信者の人生を狂わせている例は多い。
敢えて、ペトロの言葉を補足すれば、「あなたが、信者であるなら、あなたの良心などすでになく、洗礼の時に、キリストの良心に置き換えられていることを肝に銘じておくべきだ。神様の子供になったのだから。」
そうは言っても、自分の良心とキリストの良心。このせめぎ合いこそ信者人生の現実。行きつ戻りつ、キリストの良心のモードに染まっていく。そんな、願望、祈りなしにあなたはなたのままなのだ。
「回心して福音を信じなさい。」水曜日に灰を受けた時の言葉。4月20日の復活祭に向かっての四旬節が始まった。