ミスマッチの神秘を生きる
マルコ9,2-10
2003.3.15記
イエスは、ただ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんな布さらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口を挟んでイエスに言った。「先生、私たちがここにいることは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。。
中学生の頃、隣村の友達の会話は、ボクから見ると大変大人びていて、一種の憧れであった。ある時、彼らから学んだ言葉がとても新鮮で耳に残ったのでいつか自分も使ってみたいと思っていた。ある時、父と母との会話を側で聞いていたボクは、さりげなく口を挟み、例の言葉を使ってみた。すると父が叱った。「そんな言葉をどこで習った?!」
借り物の言葉であることぐらいはすぐに分かっただろうし、子供のくせに大人びた風情が不快だったのだと思う。大人の口調をまねただけでは、大人の会話に入らせて貰えないことを学んだ小さな一歩だった。
確かに、他人の話に首をつっこみ、不用意に、口を挟んだりしてはいけない。まして、話の内容もよく分からないまま、早とちりして口を挟むのはマナー違反。
だから、ペトロは、せめて、「口を挟むようですが…」と一言断りを入れるべきだった。しかも、自分でも、「どう言えばよいのか、分からなかった」のだからなおさらだ。だから、深刻な会談(注1)の途中でのペトロの提案は、唐突で、三人は目を白黒させたにちがいない。案の定、提案は無視され、取り合っては貰えなかった。おかげで、ヤコブとヨハネの前で面目丸つぶれ。当然といえば、当然だ。
ま、そんな風に、評論家風情にものを言って貰うために、マルコはこのエピソ-ドを記しているのではない。ペトロをはじめ弟子たちの思いとイエスのそれとのどうしようもないミスマッチこそ、実はイエスの福音の切り口だった。もっと言えば、とんちんかんなペトロの提案が引き出した山での最大の収穫こそ、福音そのものだった。「これは私の愛する子。これに聞け」という天の声。
ミスマッチを咎められることもなく生き方が示される。そんなありがたい話しがあるとすれば、それこそマルコが発見したミスマッチの神秘。とは言え、その後、悲劇?は再び起こる。そして、イエスはキレた(注2)。
しかし、キレっぱなしでないところがイエスのキリストたるゆえん。今回もまたより厳しい生き方が示される。
こうして、ミスマッチが福音を引き出すドラマが展開する。そして、ミスマッチの究極の成果が復活だということになるが、その話しはまだ早い。
いずれにしろ、いかに四旬節とは言え、反省だけすればいいと言うものではない。むしろ、ミスマッチの絶えない毎日の生活で、あなたの善意、あなたの熱心さ、あなたの本気さ、情熱でさえもイエスとミスマッチを演じていないか、山での弟子たちほどではないにしても、ふと「恐れて」見ることは価値がある。そして、小さな気づきが大きな一歩となって、あなたの変容が始まる。
くれぐれも、地震、いや自身というか、そうそう自信には気をつけよう。
注1:ルカ9,31参照
注2:マルコ8,33参照