ボクはボクをのべ伝えている
使徒パウロのコリントの教会への手紙1コリント1,22-25
2003.3.22記
皆さん、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストをのべ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが召されたものには、神の力、神の知恵であるキリストをのべ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
去る一月の末ある集まりに参加した。たくさんの司祭、たくさんのシスター、たくさんの信徒が参加していた。
これからの宣教を考えるということであったが、これからの宣教の障害になっている事柄についてもかなりの声が挙がっていた。教会がもっと開放される必要があり、改革なくして宣教なしのムードが高まったようだった。大事なこととは思うが、あまり熱心になれなかった。かつて、破壊的なマグマを一杯ためては不満をあらわにしていた自分の姿を見たように感じたからだった。あの当時のぎらぎらとした情熱は人を責め、傷つけることで幕を閉じたと思っていたからだ。ある人は、「体制側についた」と言ったが…。
自分が声高に「のべ伝えていた」のは、もしかして福音などではなくて、福音を道具にして自分をのべ伝えていたのではないかと思ったとき、自分の尊大さを恥じたものだった。こうして、今なお福音を持ち出しながら、独断に満ちた発言を続けていることとどこがどう違うのか。大きな違いが一つだけある。不満のマグマを吐き出しているのではないということだ。敢えて言えば、不満や怒りではなく、「一杯話したいだけ」。だから、楽しい。
本論に入らずに自己弁護ばかりしているのは、ナンデダロウ。ま、今日の本論は、これからの宣教がどうという大それたことではなくて、毎日の生活で、自分がいかに自分自身を生きていることか、の反省のココロ。
小さな幼稚園だが、ボクにとっては、かなり手応えのある世界だ。無視されたといって怒り、常識がないと言って人を軽く見、年上に向かって失礼だと言って責め、あごで使われたと言って屈辱感に打ちのめされた自分がいるワケ。自分を惨めにするような外圧は容認できない小さなブッシュ。そんなボクに、「一体それがナンボノモンヤ」とペトロが言った。と感じたワケ。で、今日は、ホント、さすがに弱気になり、独断に満ちた発言を控えたくなったわけ。