神様はお人好し
エレミヤの預言31.31-34
2003.4.6記
身よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。その時、人々は隣人同士、兄弟同士、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らは全て、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
お人好し。「あまり善良すぎて人に侮られやすいこと」と手元の広辞苑にはある。なるほどそうか。妙に納得した。いや、自分のことではない。これはまさに神様のことだ!
頼まれたわけでもないのに危なっかしい相手と契約を結び、案の定ホゴにされて茫然自失。我を忘れて怒り心頭。それに懲りてもう二度と安易な契約などするものかと心に決めたかと思うと、なんのことはない。また同じことを繰り返す。しかも、それが、四千数百年も繰り返されていると聞けば、開いた口がふさがらない。
本人が、いくら大真面目でも、相手がその気にならないことには話しにならないではないか。フツウなら、相手が悪い、と手を引けば済むことだ。そして、自分が甘かったと反省し、二度と同じ過ちを犯すまいと自戒すればいいのだ。
ところが、世の中、捨てたモノではない。エレミヤもその一人なのだが、預言者と呼ばれる人々が黙ってはいなかった。神に立ち戻れと命を賭して民を説得し、その結果、心ある人々は目を覚まして胸を打ち、神にその非を詫びて許しを乞うた。そして、お人好しの神様は、ついその気になって、前言を翻し、気がついたら、四千年も経っていたというのが、今日のエレミヤの預言の顛末。
で、そんな「人に侮られやすい」お人好しの神様を、いとも簡単に裏切り、翻弄してきた「人の罪」は、実は、親愛なる我らがイエスをも虜にしようとしたのだ。今日のヨハネ(12.23-28)のイエスの言葉を味わうといい。弟子のアンデレとフィリッポに対する返事ということになっているが、これは、先の見えない状況の暗さにおびえるイエスの叫びと言っていい。
現実に戻れば、就業規則を「この紋どころ」にしてリストラしたい思いに駆られている自分がある。それも出来ないのは、まるで自分自身に言い聞かせながら不透明な状況を乗り越えようとするかのようなイエスのあの返事なのだ。お人好しの神様を翻弄するのは自分でもう終わりにしたいという子としてのけなげな思いこそ復活をもたらしたことを知ってしまったものだから…。ボクってお人好し?