二つの入城
マルコによる福音11.1-10
2003.4.13記
一行はエルサレムに近づいて、オリーブ山の麓にあるベトファゲとベタニアにさしかかって時、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすが、まだ誰も乗ったことのない子ロバがつないであるのが見つかる。それをほどいて連れてきなさい。もし、誰かが、「何故そんなことをするのか」と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐお返しになります』と言いなさい。」二人は出かけていくと、表通りの戸口に子ロバのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ロバをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスが言われたとおり話すと許してくれた。二人が、子ロバを連れてイエスのところに戻ってきて、その上に自分の服を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、外の人々は、野原から葉のついた枝を切ってきて道に敷いた。そして、前を行くものも後に従うものも叫んだ。「ホサナ。主の何酔ってこられる方に祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
アメリカ軍のバグダット侵攻を、人々は、ベルリンの壁の崩壊と重ね合わせながら、独裁政治の終焉を称えたり、あるいは両者の違いを指摘したりしていた。かたや民衆の力、かたや他国の武力。
「自分には信仰がある」と豪語する大統領も、さすがに、イエスのエルサレム無血入城を口にすることはなかった。もしかしたら、「侵攻はあるが、実は信仰はない」と密かに胸を打っていたかも知れないが…。もっとも、「イラクの人々の解放」という大義名分を掲げることで、多くの流血という惨事をチャラに出来ると思っているのかも知れないのだが…。
それはともかく、人々が、大きな銅像を引き倒し、足で踏みつけ、町を引きずり回す映像に息をのみながら、抑圧からの解放をついに手にできた喜びと抑圧者への怒りがない交ぜになっている様子が胸に迫り、手放しで喜び、拍手を送っている自分がある。そして、自分のために国民の自由を奪い、奴隷のごとく従属させた独裁者め、思い知ったか!バカタレガ!そんな叫びをあげている自分も。
真の解放者としてのイエスのエルサレム入城から40年。ローマはそんなイエスの思いを踏みにじるかのようにエルサレムを瓦礫の町に変えた。いや、教会当局も聖戦の名の下に無数の人々の血を流した。時代は流れ、ヨハネ・パウロ二世は教会の非を認め、戦争は悪だと断じ、イエスの思いを現代世界にアピールしている。そして世界中から共感を得ている姿に、カトリック信者の一人として胸を張っている自分がある。
ミサを捧げ、世界の平和を祈り、身近な人々の和解に心を砕いている自分と、攻撃へリアパッチを操り、マシンガンで悪党どもを粉砕するテレビの金曜ロードショーに夢中になる自分がある。
こうした世界の状況と自分の状況の中で、今年も、イエスのエルサレム入城が粛々と始まる。可憐な花を手渡すイラク人女性とそれを受け取って戦車の横に指す米兵。心和む風景。戦車ではなく一輪の花がくれたあの平和。裏切りと十字架の待つエルサレム入城を果たそうとするイエスからのメッセージが時空を超えて届いた。
ボクの中のエルサレム。イエスは再入城をあきらめない。