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信仰、確信が崩れるとき

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 12時48分

今週の聖書

ヨハネによる福音20,24-29

2003.4.27記

12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで他の弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ私は決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた、家の中におり、トマスも一緒にいた。とには皆鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中にたち、「あなた方に平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じないものでなく、信じるものになりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」

今週のポイント「…決して信じない。」
どこかで聞いたようなセリフだ。イヤ、どこかで聞いたようなネイロのセリフとでも言おうか。頭脳明晰なスタッフ。反論を許さない雰囲気の確信に満ちた態度。宣言するかのような威圧感十分の発言。自分の知識の貧弱さを指摘されたようで、思わず頷き、敬服してしまった。「そもそも、日本の教会は…」威風堂々の説得力に満ちた発言が続き、評論、自説、力説の前に自分の世界が小さく見え、劣等感とも憧れともつかない溜息の中で終わったいくつもの研修会。結局、物まねするには余りにも高度すぎ、「ボクはボクなりに…。」声にする勇気のないまま飲み込んだ思いへと繰り返された軟着陸。

トマスの自信に満ちた発言。素朴な弟子たちが驚いたように見上げた。ペトロが口を開いた。「確かに、『あなた方に平和があるように』と言われた。それに、『聖霊を受けなさい』と、フーフーとこんな具合に息も吹きかけられた。そうだよな、兄弟たち?」「ウンだ、ウンだ。」皆が一斉に頷いた。皮肉な笑みを浮かべながらトマスは黙らない。「考えても見ろよ。そもそも…」トマスの熱を帯びた鋭い考察が続き、ペトロをはじめ並み居る弟子たちは言葉に窮し、ぶつぶつ言いながら解散した日から八日後。なんと、あのトマスが、あっさり降伏した。トマスの確信が音を立てて崩れたのだ。しかし、トマスを笑うものは誰もいなかった。「主に出会った」体験を共有できたからだ。

「そもそも…」けんけんがくがく、異論百出。「あーでもない、こうでもない」繰り返される会議、会議。きっと、みんな大事なことに違いない。しかし、誰もが、トマスを演じるように招かれていることに気がつくのはもっと大事なことに違いない。なぜなら、出会いにこそ、復活を「論ずるより生むが易し」の極意が秘められているからだ。

で、確信?それでナンボのもんや?


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