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主が来られるまで…

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 12時52分

今週の聖書

使徒ヨハネの手紙 1ヨハネ3.1-2

 2003.5.11記

愛する皆さん、御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、その通りです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、私たちは、今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかはまだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似たものとなるということを知っています。なぜなら、その時、御子をありのままに見るからです。

今週のポイント終末における希望、がこの箇所のテーマだという。
 終末というとどこか暗い響きがする上に、イマイチ、ピンとこないのだが…。本文を読むと、「自分がどのようになるか」分からない不透明な状態が終わって、「御子が現れ」、「御子をありのままに見る」時らしいことが分かる。

妹の子守を負かされたものの、そのうち何が不満なのかぐずり出し、そしてついに泣き出し、ヨシヨシというあやしかた以外に打つ手を知らない兄に、まるで抗議するかのように、声を限りの大泣きが止まらない。ボクは、もう絶望的になり、帰りの遅い母に対するイライラは募り、半べそ。そこへ、「ゴメン、ゴメン遅くなったね」と母が畑から帰ってきた。「モウ、遅いじゃないか~!」と文句を言いながらも、心の中にはパッと明かりがともっていた。解放という言葉を知らない幼いころの開放感は今も鮮明。

世界の情勢を見るまでもなく、身近な教会の現実を眺めてみても、「モウダメかも知れない」と口にこそしないが、絶望、とまでは行かなくとも、失望の言動は多い。信徒に失望し不満を募らせる司祭。司祭に失望し、あきらめ、気力をそがれる信徒。発言力と存在感でシキル実力者信徒の前で萎縮する信徒。全教会を覆う?こうした閉塞感こそ、「自分がどうなるかまだ示されていない」神の子らの「不透明な信仰の姿」に他ならない。

信仰者の生き様が、希望ではなく、不透明感という不安やいらだちを醸し出しているところに、ヨハネの時代と同じ状況がある。で、彼の祈りは、「それでも、神の子らとしての証は希望であるのだから、主が来られるその時まで信仰を全うして欲しい。」

それぞれを取り巻くそれぞれ色合いの違う問題。誰かを裁くのでもなく、誰かのせいにするのでもなく、誰かの回心を祈るのでもなく、せめて、「こんな修羅場に主がお立ちなるその時まで…」と、ヨハネの祈りを自分の祈りとしながら、「今日も一日あなたの子らしく歩ませてください。」

イエスとの開放感の共有、あなた自身の閉塞感の打破こそ一級品の信仰。不透明さという問題のただ中にあって、あなたらしさをますます開花できる快感体験こそあなたの復活体験。

今日は母の日。幼いころ母がくれた解放感に感謝しながら感謝の祈りミサをプレゼントしたい。そして、全てのお母さんたちに栄光あれ。


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