「何でもかなえられます」って本当?
使徒ヨハネの手紙1ヨハネ3,18-24
2003.5.18記
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって私たちは、自分が真理に属していることを知り、神のみ前で安心できます。心に責められることがあろうとも。
神は私たちの心よりも大きく、全てをご存知だからです。愛する者たち、私たちは心に責められることがなければ、神のみ前で確信を持つことが出来、神に願うことは何でもかなえられます。私たちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神のうちにいつもとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます。神が私たちのうちにとどまってくださることは、神が与えてくださった霊によって分かります。
神に願うことは何でもかなえられます。あなた達が私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう。(ヨハネ14,13)
何度繰り返されようとも、マに受ける人は少ないと思う。むしろ、誰も本気にはすまい。なぜなら、願ってもかなえられなかったことの方が多いからだ。
天気になりますように。宝くじが当たりますように。病気が治りますように。戦争を回避できますように。などなど。
なのに、ヨハネはどうして、こんな安請け合いと思えることを繰り返すのか?聖書には不可解なことが多いが、これはもっとも難解なことの一つと言っていい。かといって、「わかリマシェーン」では悔しい。ヨハネの真意に何とか迫れないものか。
ところで、あなたは今何が一番欲しい?
幼稚園内の和解と発展。お金。暇。司祭館のリフォーム。新しい車。12倍ズームデジカメ。携帯用パソコン。おっと大事なことを忘れるところだった、洗礼志願者多数。
ある人には旅行。ある人は仕事。さらに、油田の全権利。大統領職。などなど。
ヨハネは、「互いに愛し合うこと」と即答する。
欲しいものが全て手に入っても、高ぶり、おごり、傍若無人に自信過剰。ある国を見るまでもなく、「願うことは何でも適えられる」としても人は必ずしも幸せではなく、人をも幸せに出来るとは限らない。
そうすると、ヨハネが言う「何でも」を物品のように数えることには大して意味がない。そこで、そういう個々のモノにいくらか事欠いていたとしても、大満足を味わった体験。認められたと実感したとき。正当な評価を得たと感じたとき。文字通り「何物にも変えがたい満足感。」そんなとき、「他に欲しいモノは?」と聞くだけヤボ?
イヤ、実は、まだある。どんなに失敗し、見栄えがしなくても、何の実績もなく、肩書きなどなくても、「私を私として、そのままで認めて欲しい」という深い深い「願い」。これが叶うこと。そして、かなえ合うこと。私の「何でも」が色あせるほどに私をチョウ輝かせるモノ。
ヨハネの舌足らず?の、あるいは気休めの、あるいは安請け合いの感じのする約束の真意はどうやらここらあたり?