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「さまよう美学」

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 14時29分

今週の聖書

使徒たちの宣教1,6-11 

2003.6.1記

 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」
 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれる時、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の天使が側に立って言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

今週のポイント「彷徨う美学」高校時代の親友が美術教師退官を記念して発行した図録の表題。「大人たちへ…」の部屋で紹介してあるので読んで貰えると嬉しい。
 いかに親友とは言え、価値ある本の表題を拝借するのは気が引けるので「さまよう美学」。
 迷う、となると深刻だが、彷徨う、さ迷うとなると自分を少し自嘲的に眺めるゆとりを感じるのでいい。
 ところで、今日の話しは、美術とは何の関係もないのだが、彷徨う、に惹かれたものだから…。
 さまよう、と言えば、信仰の世界にこそふさわしい。信徒は、熱心党信者に圧倒されて彷徨い、はたまた主任司祭の一挙手一投足に翻弄されて彷徨い、司祭は司教さんたちの権威のもとで彷徨う。挙げ句の果ては、教会当局には背を向けて、孤高の信徒としての道を選ぶ人は後を絶たない。司祭もしかり。
 そうだった。今日は主の昇天なのでこれ以上脱線してはいけない。で、何故昇天?いや、それはいい。昇天があって、聖霊降臨があって弟子たちが、まるで人格が変わったかのように熱烈な福音の証人となって、さ迷うことなくまっしぐら。
 そういうことは、みんな知っているのだが、現実の私は、一難去ってまた一難。あーでもないこーでもない。されば、「カトリック教会の教え」で信仰の筋力をつけるべく、一家に一冊。ミサ後の解説開始。だが、難解な日本語と神学に、ここでも彷徨うばかり。「分からないことに振り回されないで、分かることを大事に」とお茶を濁して、彷徨ホウコウに終止符。
 何故そんな無責任なことが許されるのか?それを解くキーワードが昇天。主を失って彷徨う弟子たちに、「ここまでおいで!」と言わんばかりの昇天パッフォーマンス。なんと、我に返った口あんぐりの弟子たちは、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて神をほめたたえていた」(ルカ24,52-53)のだ。天、神の住まい、神殿。弟子たちの中でつながった!
 珊瑚礁内の穏やかな奄美の海。ボートに身を任せてゆらゆら揺れる心地よさ。係留されているボートは安全だがゆらゆらの醍醐味はない。「芸術の世界」につながれることなく、自分の中の天につながって彷徨う親友。だから、彼は人に自然に優しい。何よりも人生が楽しい。自分の彷徨ホウコウを誰かのせいにすれば不幸になるばかりだが、天につながってさ迷えば、腹も立たず楽しい。で、分からないことに振り回されない信仰ゲット。で、昇天を祝うもの合い言葉は「彷徨的信仰快楽」。


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