共にさまよう神の霊
使徒たちの宣教2,1-11
2003.6.7記
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような下が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。
(略)
…ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞くとは。
この話で思い出した。かれこれ17年ほど前のことになる。台湾の山の教会を訪ねた時のことだ。その村の日常語は、現地語となんと、日本語!お御堂には日本語の聖書も沢山。村を歩くと、「ごくろうさま」と郵便ポストに書かれてあったりする。教会下の川沿いには町営の温泉。是非にと出かけたらオープン前。通りがかった40代の男性に声をかけた。「すみません、温泉は何時に開くんですか?」「そうですね。もうすぐ役場の人が開けに来るはずですよ。」見かけぬ旅人に不審な顔もせず、ごく自然な日本語での返事。日本語が少し分かるという程度ではなく、役場の人が来るまで世間話が出来たのだ。全く違和感なし。もっとも、日本統治の置きみやげとなると違和感大。そして、温泉前の小さな橋の名前「愛浴橋」のアイヨクには違和感を少々。いずれにせよ、外国でこんなにも「通じた」のは後にも先にもこの時限り。
で、聖霊降臨の今日のキーワードは「通じる」。人と気持ちが通じるのが当たり前のときはいいとして、特別「通じる」必要を感じない親子、夫婦、師弟などなど。どちらかが、通じたいのに取り合って貰えない。大変だろうなあと思う。実際、「通じる」ことが悲願に近いことは多い。「親業」「マリッジ・エンコウンター」などのプログラムは、まさにこの悲願達成を目指すものと言えよう。
ま、それはともかくとして、もっとタイヘンなのは、「自分と通じる」ことではないか。そう実感することは多い。「通じない問題」がモンダイとなって、何とか解決しようと努力するが、空回り。責任、立場上、使命…。あらゆる言葉を駆使して自分を正当化しようとするが、正直、幾ばくかの違和感をぬぐえない。
そんな自分の現実に、これ見よがしに、「通じた、通じた!」とエルサレムでの教会誕生の大歓喜。追い打ちをかけるように、「霊の実りは愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5,22)とパウロの雄叫(おたけ)び。
ヤレヤレ…。無理なこじつけケガのもと、か。ま、それはそうだ。違和感払拭。「では…」と次なる一手を求めてフラフラとさまよい出る。「聖霊と通じるのって、よっぽどタイヘン。弟子たちのように、カッコヨク決めたいのになあ。」悲願に向かってのボクの教会の脱皮の瞬間。
コレ、通じます?