友情の証、キリストの聖体
マルコによる福音14,22-26
2003.6.22記
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを割き、弟子たちに与えていわれた。「取りなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて彼らにお渡しになった。彼らは皆、その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ブドウの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は、賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。
マルコの記述は、言っちゃ何だが、いつも変わらずに、淡々と、そして淡白にミサを司式している自分を見ているようでおかしかった。つまり、最後の晩餐というのに、悲壮感が漂ってこない。もっともこの時代、イエスの死後30年?すでに、ミサの式文が出来上がっていたと聞けば、なるほどとも思うのだが。それはともかく…。
ずいぶん前の話しになるが…。
実は、このイエスの言葉、パンをキリストの体に変える「聖変化」の言葉。いや、司祭が、その言葉を言う前にパンと杯の上に手を述べて祈るとき、パンと葡萄酒がキリストの体と血に変わるという学者もいます。
どっちでもいいが、どうもマジナイみたいでなじまない。やっぱりプロテスタントがいい。
知り合いのお医者さんは、そう言って他の教会に移った。受洗後数年が経っていた。
今日、幼稚園の一人のお母さんが洗礼を受けた。聖変化にも違和感はないらしい。イエス様のことを知れば知るほど心浮き浮き、もっともっと…。そんなようすが見て取れる。
「悪霊の拒否」にも、「退けます!」とキッパリ。信仰宣言にも、顔を上げて「信じます!」洗礼式なので当然といえば当然だが、前に立つボクが感激した。いや、ボク以上にイエスご自身が感激されたに違いない。
一粒一粒が砕かれてパンとなり、ぶどう酒となる。そんなパンとぶどう酒にご自分の思いの全てを託し、「取りなさい。これは私の体、私の血」と言って友である弟子たちに残された聖体。「アーメン。」取って食べ、口に含んだ弟子たちの応答。まさに、砕かれながらイエスとの友情を確かなものにしていくという応答。
この「アーメン」こそ聖変化を完結させる本質的な応答。それなしにミサは、聖体は、そして聖変化は空しい。イエスの一人相撲では気の毒すぎる。イエスを同行人とする人生を受諾した人にとっては一人相撲も、マジナイもあり得ない。聖体を巡って交わされる信者の合い言葉、「アーメン。」それは、友情の「愛ことば」。イエスの友情への証。
で、聖体をイエスのマジナイにしてしまうか、それとも友情の証にするかはあなたの「アーメン」の質にかかっている。