パウロの強気とペトロの弱気と…
ガラテヤの信徒への手紙2,11-14
2003.7.2記
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
二日遅れで気が引けるが、やっとパソコンに向かうことが出来たので…。遅れついでに、日曜日には読まれなかった箇所を紹介したい。パウロとペトロの確執が楽しい?
ところで、ここでケファと呼ばれているのはペトロのことで、パウロは敢えてケファ(岩)を使ったらしい。つまり、パウロはペトロの優位性を認めているが故に、彼の行動が許せなかったのかも知れない。「あなたが変われば鹿児島は変わる!」と権威者にたてついてばかりいたことを思うと分かるような気がするのだ。
前置きはともかく、ペトロは、汚れた生き物が天からつり降ろされて、「屠って食べよ」というあの幻を見た(使徒10,9以降)ことで、「神が人を差別なさらないことがよく分か」(同34節)ったはずだったのに、それはアタマだけの認識、というか信仰だったことを暴かれた。人ごとではないが…。
勝ち誇ったかのようなパウロのことは先に触れたが、彼についてはまだ言わなければならないことがある。
「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」(使徒16,3)
自分のことは棚に上げて、ペトロに厳しい言葉をかけるパウロ。
すごすごと身をひくペトロ。
そんな二人が、教会を支えた二本柱だとは!アタマだけの信仰だろうと口だけの信仰であろうと、支えているのはワシだ。最強の柱キリストが言う。二人ともそれを信じていたから、反論も弁解もせず、自分のことも棚に上げることが出来たのかも知れない。いずれにしろ、あなたでサエモ、その資格がありそうな気にさせてくれる?から教会って気が楽だね。