神様の泣きどころ
エゼキエルの預言2,2-5
2003.7.6記
その日、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は語りかけるものに耳を傾けた。主は言われた。「人の子よ、私はあなたをイスラエルの人々、私に逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様私に背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、私はあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
怒りの神のお使いとして送られるエゼキエルはどんな気持ちだったのか。そう言えば、怒りで思い出したことがある。
子供のころのボクは、自慢じゃないが、家で勉強した記憶がない。下校するや、鞄は縁側に放り出し、暗くなるまで山野を駆けめぐっていた。六年間、鞄は同じ場所から運ばれ、同じ場所に戻った。縁側に鞄形が残ったほどに。これは冗談として…。「遊びって何でこんなに楽しいんだろう!」そう実感しながら遊びに明け暮れた六年間だった。そのためかどうか、よく熱を出して、母に叱られた。看病しながら母は言った。「帽子もかぶらずに一日中照られてばかりいるから!今度熱を出したらもう知らないんだから!」声は怒っていたが、ボクは内心確信していた。「ウソだもんね。」ボクは、言いつけに背いて安心して熱発を繰り返した。母親の泣き所を知り尽くしたガキ大将。
だからというわけではないが、聖書に、神の怒りを読んでもちっとも怖くなんかない。今日の話しだってそうだ。
この話は、BC6世紀、今のバグダットのあたりでのことらしい。あの時代、フセインやブッシュみたいな「恥知らずで、強情な人々」が威張っていたのかも知れない。神様は「逆らった反逆の民」に怒りをあらわにしながらエゼキエルを呼びつけた。神様は、誰よりも?自分に正直な方だから、腹が立ったら腹を立てていない振りなどしないで、ストレート。言葉はマジで怒っているが、エゼキエルには分かっていた。「ワシはこのバカタレどもを何とかしたいのだ。」そんな神様の気持ちを読んだエゼキエルは、だから、「私を自分の足で立たせた」と言って、神様に同感して、お使いを引き受けることにしたのだ。反逆の民であろうが、放っておけないのが神様の泣き所。これを愛とも言うが…。
現実の厳さに腹を立て、自分の不幸を人のせいにし、許しなさいとは口ばかり、恨み辛みをいつまでも引きづり、自分の罪深さやいい加減さに気が滅入ったとしても、いや滅入るというのは口ばかりで、同じ事を何度も繰り返しては平気でゴメンといってお茶を濁して数十年。そのことで神様も大きな溜息をついたとしても、いやそうであればあるだけ、だからこそというか、神様はボクを放っておけない。
そんな、ややこしいことを言いながら、エゼキエルは失意の内にあるる人々を励まして、神様の複雑な胸の内を代弁し、ついに人々の心を勝ち取り、神様の怒りの真相を開示することに成功したのだった。こうして、イスラエルは、異国の地で再生した。エゼキエルって神様の秘蔵っ子?
ところで、あなたはキリスト信者?それとも、キリスト友の会準会員?それとも、このページの愛読者?なら、エゼキエルの友でもあるわけだね。