癒し系を目指して
マルコによる福音6,7-3
2003.7.13記
イエスは十二人を呼び寄せ、二人づつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本の他何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たずただ履き物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでもある家に入ったら、その土地から旅立つ時まで、その家にとどまりなさい。しかし、あなた方を迎え入れず、あなた方に耳を傾けようともしないところがあったら、そこを出て行く時、、彼らへの証として足の裏のちりを払い落としなさい。」十二人は出かけていって、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追いだし、油を塗って多くの病人を癒した。
癒し系の音楽から癒し系の顔に至るまで、この数年?よく耳にするのが癒し。それこそ、数年前、奄美の故郷の教会にいたころ大阪の青年たちが来訪して祈りの集いをもったことがある。奄美の自然を満喫した彼らの口から一斉に聞かれたのが「癒されました」だった。都会の青年たちは身も心もぼろぼろに傷ついているのかと驚いた。「あれは、ホッとしました、という程度の意味です」と同伴の司祭から教えられた時は更に驚いた。少なくともボクにとって、癒しは、肉体的病からの解放だけでなく心の傷から解放されるという深刻な響きのする言葉だったからだ。
ともあれ、弟子たちが受けた使命の一つは癒し。しかし、「悔い改めさせる」、「悪霊を追いだし」、「病人を癒した」などの勇ましい活躍ぶりは、人ごとの感じを免れない。父親との確執に精神のバランスを失いかけていた状態から劇的に癒された体験はあるとしても、対外的にはないからだ。
それでも、弟子たちのようなハデなパフォーマンスはないとしても、イエスから派遣された弟子たちの流れを汲む教会に属する者の一人として「癒し」の任を受けている事は確か。そうなると、ボクとしては、あの青年たちが教えてくれた癒しの新しいレベルを支持したくなる。そして、「またある人々は、弟子たちと出会ってホッとするのだった」とマルコの本文に加筆したい。あ、これならボクにもイケそう。
そうは言うものの、このレベルは、もしかして、弟子たちの使命と言うより、人間誰もが受けている使命なのでは。とすると、このいわば福音の大前提とも言える「ホッとする癒し」すら教会はと言うか、ボクはというか、実現できていないなあ。イエス様が珍しく皮肉っぽく言われた。「今頃気がついたのか。」
今日はもうやめよう。