ケンちゃんの十字架賛歌
使徒パウロのエフェソの教会への手紙
2003.7.20記
あなた方は、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にもまた、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、おん父に近づくことが出来るのです。
直美ちゃんは、お父さんの国イギリスに半年のホームステイをした。今では、イギリスと聞くと親戚の人たちやいとこたち、そしてロンドンタワーが目に浮かぶという。以前に比べてイギリスはうんと身近な国になった。
志布志に来て三回目の夏。今まで、思い描くことすらなかった町が自分の町になった。おかげで、ボクの友人知人もよく志布志に来るようになった。彼らにとっても志布志は身近な町になったのだ。
また、ぼくにとって、タイと言えば、すぐに友人の司祭の顔がまず浮かび、彼の兄弟や一族が続々と現れる。そして、むしょうに会いに行きたくなる。
あ、こんなことはいずれも今日の本題とそれほどミジカナ話題ではない。
で、話しは突然飛躍するが、パウロが、「あなた方は、…身近な者となった」という時、まさに、気がかりな存在になったということだ。ユダヤ人と異邦人。排除し合うためだけの気になる存在から、心に掛け合い、お互いの幸せを祈り合う間柄になった。
排除し合うと言えば、新しい国作りに、お互いのエゴを捨ててみんなで協力すればいいのに。イラクの現状を見ればだれもがそう言いたくなる。ひるがえって、自分の足元を見れば、小イラク現象に事欠かない。そんな時、何が何でも、打倒イラクを傍若無人に叫んで断行し、つじつま合わせに苦労している姿は、まさに他山の石。それでも、拳を振り上げ声高に演説する姿には男の美学を感じたり…。
あ、まさにそんな時、ワシは、身の丈以上のことはすまい、と自戒すればあなたはただの人。あの、まさに傍若無人の熱血漢パウロがその野心を砕かれた時、今度は、対立のまっただ中に敢然と立ち、十字架を振りかざして、ヒカエオロー、コノオカタヲ…。聖書の世界の助さん格さん。
いや、実はそうなんだ。ボクの傍若無人をいつもいなし、振り上げた拳をみすみす引っ込め、しょうがないかと意気阻喪させる十字架。何かというと、目の前に立ちはだかる十字架。えーい、知らんぷりでと通り過ぎタレ、と思ってもやっぱり気になる十字架。アンタが、十字架から逃げてくれさえしてたら…。
なんだかんだ言いながら、やっぱり十字架はボクの紋所。
ナンか今日は支離滅裂ジャンカ。