神様ドロンの私密に迫る?
使徒パウロのエフェソの教会への手紙4,1-6
2003.7.27記
皆さん、主に結ばれて囚人となっている私はあなた方に勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって、互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなた方が、ひっつの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、全てのものの父である神は唯一であって、全てのものの上にあり、全てのものを通して働き、全てのものの内におられます。
エフェソ書を引用して、フェイントをかけるようだが、今日の福音は五千人の人がパンを食べた話し。人々が、「この人こそ預言者。王様にしよう!」と興奮、歓喜した時、イエスは、まさにフェイントをかけて、「一人でまた山に退かれた。」(ヨハネ6,14-15)得意の山隠れの術でドロン。
この方が王になったら、あわよくば、その右と左にという下心が働いていた弟子たちにとって、人々の動きは渡りに船。そんなみんなの思惑は見事にはずれた。
御利益宗教などと小馬鹿にするが、人はみんな御利益を求めている。お祈りは基本的に御利益になっていることが多い。晴れますように、早く病気が良くなりますように、計画したことがうまくいきますように、などなど。
そんなとき、神様がドロン。そこから、人は考え始める。雨のおかげで、結果的には…。あの病気が長引いたおかげで…。あれがうまくいっていたら今頃ボクは…。そんな風に賢くなることが期待されていたとすれば、神様のドロンの価値は計り知れない。
それでも、すぐにそんな風に賢くなれない人に、「全てのものの父である神は唯一であって、全てのものの上にあり、全てのものを通して働き」とパウロが登場することになる。特に、「全てのものを通して」神が働くところがいい。パウロは牢屋の中からこの言葉を贈ったのだという。
神様が目の前でドロンしたのなら、声のかけようもあるが、八方ふさがりの時はに何を言えばいいのか。吉と出るか凶と出るか。予測のつかない時のあの何とも言えない不安と怖いような不気味な孤独感。思いっきり落ち込んだまま、鉛のように重たかった胸の内を、側の二人にチョット明かしただけでずいぶん軽くなったときの、これまたなんと言えないうれしさ。吉であろうが、凶であろうが前進できそうな少し大胆な気持ち。渋いと思っていた自画像が崩れ、己の単純な精神のカラクリに苦笑し、ぽろっと漏らしたボクを笑って受け取った若い二人が偉大な母に見えた日。やっと、「全てのものを通して」の意味が分かりかけてくる。
え、神父さんに何かあったの?若い二人に聞いてくれ。