身を持ち崩しても辿る感謝への道
使徒パウロのエフェソの教会への手紙5,15-20
2003.8.15記
皆さん、愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつもあらゆることにについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
今日は秋口のような涼しさ。早くさわやかな秋になって欲しい。幼稚園というこの世の業に手を染めたばかりに、逃れることの出来ない様々なしがらみ。どうせなら、徹底的に、どっぷりとつかってやるか。そう気合いを入れて始めたわけではないが、どっぷり、たっぷりつかるはめに。
確かな情報が欲しくても、かすかな物音のようにしか聞こえてこない超特大の不安。食欲もなく、好きなお酒にも興味は湧かず、恐ろしいほどの孤独感。半ば、自暴自棄。どこかで誰かがあざ笑った。「お前の信仰?希望?愛?それがナンボノモンヤ。イ・ヒ・ヒ・ヒ…。」無気力に無感動に聞き流すだけの自分。まさに、身を持ち崩して?心は萎え果て、あるのは、無分別な、超パニックの自分だけ。
励ましに貰ったCDから流れる澄んだ賛美の歌声に耳を傾けながら籐いすに身を任せた。テーブルの上に無造作に置かれた届いたばかりの「内観ニュース」。思わず手が伸びた。まもなく、隅から隅まで、なめるように読んでいる自分に驚いた。内観体験者たちの沢山の声が、賛美歌の調べに乗って、荒涼とした乾いた砂地を、暖かく、やさしく、潤していくようだった。
読み差しの分厚いトマス・マートン、ポケットに収まりそうな、しかし立派な装丁のアウグスチヌスの言葉集、などなど。少し古いが、自分でもあのパックマンを連想したほどに、日本語、英語、パクパク手元の本を食べ始めたのだ。自分がこんなにも読書家だったとは!いや、自分がこんなにも人恋しい人間だったとは!イスに座り人に会うこともなく、しかし沢山の人の中を夢中で歩き回った数週間。
「賢い者、細かく気を配れ、時を用いよ、無分別、主の御心、語り合い…」と呼びかけるパウロの一言一言は、まさに、賢者の言葉にも似て、ボクを気後れさせてしまう。
しかし、これらの一言一言は、実は、彼が直面したあらゆる修羅場での様々な心の動きに翻弄されながらも主から離れることのなかった自分なりの結論だったのだ。「あらゆることについて…感謝しなさい」と言えるまでの長かった道のり。
ことの全貌を手中に収めた今、二千年の時を超えて、パウロの息づかいを身近に感じた昨日今日。