ヤコブよ、あなたも熱心党?
使徒ヤコブの手紙1,17-18,21-22,27
2003.8.31記
私の愛する兄弟たち、良い贈り物、完全な賜はみな、上から、光の源であるおん父から来るのです。おん父には、移り変わりも、天体の動きに連れて生ずる陰もありません。おん父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んで下さいました。それは、私たちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
心に植え付けられたみ言葉を受け入れなさい。このみ言葉は、あなた方の魂を救うことが出来ます。
み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わるものになってはいけません。孤児ややもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神のみ前に清く汚れのない信心です。
日曜日の昼下がり、扇風機に吹かれての心地よいうたた寝。ワンワン…。ケイタイに手を伸ばすと我が家一の信仰一筋熱心党の姉だった。22名もの甥や姪がいると話題に事欠かないが、最近は一人の甥のことで夜も眠れないという。父親がしっかりしないからだと、弟にも長距離電話のセッキョウをしたらしい。「けんか別れみたいになったのでお手紙を書こうと思う。」電話がダメなら手紙。そのうち、「言い過ぎてゴメンナサイ」に続いてコンコンと言って聞かす手紙が届くことだろう。
「世の汚れに染まらない」姉の生活から見れば、甥や姪の生活はハラハラドキドキの連続に違いない。そして、父親や母親である弟や妹の毅然と対処しない姿に危機感すら感じてしまうのだろう。それを、即行動に移し、強気の救済策?を提案し、そして、祈り続ける熱心さには確かに頭が下がるのだが…。
ところで、「世の汚れ」とは何か?と言うよりも、「世の特徴は何か?」「自分中心という価値観?」これは明らかに神様とは相容れない。イエス様の心とも違う。まさに世の心。
「孤児ややもめ」、つまり、今一番助けを必要としている人々、が側にいても顧みないで、自分の事にばかりかまけているとすれば、「世の汚れに染ま」っていることになる。世の価値観に絡め取られている信仰。
そのような行動の伴わない信仰の活性化。実は、それがヤコブのテーマ。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と言うのもヤコブだ。
その点、姉の敏速な行動はまさに信者の鏡?と評価しながら、ボクの信仰はイエス様の毒麦のたとえに逃げ込んでいる。毒麦を直ぐにでも抜こうとするしもべたちをいさめる主人。熱心党の信仰を評価しながらも、「まあ、まあ…」としもべたちをいなす主人を支持する「まあまあ党」。その方が気が楽だし、自分もそんな風に猶予されたい。これって自分中心?いや、「まあ、まあ…」を許せない熱心党こそ…。あ、いや、兄弟げんかは止めよう。