筋トレは小出しがいい
イザヤの預言35,4-7
心おののく人に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。見よあなた達の神を。
敵を討ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなた達を救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口のきけなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。
日曜日のミサを欠かさない中二のりさちゃんは空手の選手。いろいろの大会でよく優勝する。強さの秘訣は筋トレ。テニスのイメージトレーニングのまねごとはしたことがあるが、筋トレは…。
ところで、イザヤが使う、そのとき、は神様が大ナタを振るって救いを実現される時、という意味。本文のような劇的な救いには滅多なことではお目にかかれるものではない。
しかし、誰しも、「神様のおかげ」を感謝したことはあるに違いない。だが、そのとき、あなたに何が起こったか?と聞けば、「だから感謝した!」わけだが、それだけでは少し足りない。のど元過ぎた時、感謝ではなく、何となく不満っぽい自分がいるとしたら、あの時の感謝が生きていないことになる。もっと言えば、せっかくの神様の働きが無駄になっていることになる。だから、感謝を繰り返すばかりでは成長しない。もっとも、相手が神様だから、感謝ばかりが人生ということになって当たり前ではあるが…。
それにしても、考えても見るがいい。あなたが、いつも感謝ばかりする立場にあるとしたら、だんだん惨めにならないだろうか。だから、感謝ばかりでは、必ずしもあなたはあなたらしく輝かないことを知らないといけない。
信仰者の感謝が必ずしも力を発揮しないのは、実は、自分の状況の変化ばかりを見て、そのとき、の意味を考えようとしないからだ。八方ふさがりの中で、一条の光に希望が湧いたり、心が元気になったり、意欲が戻ったり、よし!と前向きな気持ちなったり…。まさに、「荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる」体験。
だが、相変わらず問題山積。周囲の状況も希望的どころか閉塞感。で、沢山の感謝が、つまり、沢山の、そのとき、が決定打を生まないのは、「小出し」で貰っているという無意識の不満。バッと一発で貰えない。それを口に出来ない信仰という善意。
責任は誰にあるか?かみさ…、あ、いや、もちろん自分。そうなのだ、大小様々な、そのとき、こそ神様からの筋トレというメニューだったのだ。そのことに気づきさえすれば、相手の鋭い突きにもひるまずに立ち向かっていくリサちゃんのたくましい足腰と精神力、というか信仰力をゲットできるだろう。
沢山の感謝から始まって、自分の不幸を人のせいにすることなく、といっても、実際は沢山あると思うが、それでも、どんな状況にあっても、顔を上げて生きていける人生。これこそ、そとき、に託した神様の思い。
りさちゃんもエールを送ってくれるだろう。「筋トレは小出しがいいですよ。」