それがナンボノモンヤ!
使徒パウロのフィリピの教会への手紙2,6-11
2003.9.13記
キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じもにになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリスト高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全てイエスの名にひざまずき、全ての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に述べて、父である神を称えるのです。
ギラギラの情熱で生きていた頃、主日のミサもブルージーンズにTシャツ。もちろん祭服は着たが…。そして、下駄履き。そんな司祭に違和感を覚えた青年がいた。若者たちの聖書の時間、彼が口を開いた。「あなたは祈りがどんなことか分かっていますか。」唐突な質問に戸惑った。それより、質問そのものに不快感を抱いた。司祭ニムカッテナンテシツレイナシツモンヲスルヤツダ!彼の真意を測りかねながら、不快感あらわに聞き返した。「君は誰に質問しているのか分かっているのか!?」
「人間臭い神父様さん」を売りにしていたはずなのに、たかが質問の仕方でキレたりして…。何のことはない、内心大いに、こだわっていたのだ。「ぼくは神父様なんだゾ!」化けの皮をはがされた出来事だった。
あれから二十年。最近の会話から。
「聖書に、ヨブ記という本があるんですけどね。主人公のヨブという人が、子供を失ったり、財産も失い、挙げ句の果ては自分も病に冒されるんです。それでも神様をですね…。」
司祭のぼくに!、勉強家の女性信徒が!
「あなたは、本当に勉強家ですね。聖書のことも詳しくて…。本読んだりするのは好きなんですか?」
二十年前のぼくだったら…。
最近、大阪教区のシルバー信徒の皆さんの体験記を読んだ。戦争の不条理、ヨブの苦しみ、恨みつらみ、全てを、乗り越えたいぶし銀のような信仰の輝きに触れて深く感動。
ひるがえって、ギラギラに燃えていた迫害者サウロから使徒となったパウロの大変身。いや、大回心。ローマ市民権を持ったバリバリのユダヤ主義者としてこだわり続けた伝統からの決別。そんなパウロを本物の使徒にしたのは、あの不条理の死を甘受したイエスの十字架上での、体を張っての「超脱こだわり宣言」だった。
パウロが聞いた十字架からの声。「それがナンボノモンヤ!」
立場、使命感、120%の熱心さ、豊富な知識と経験、豊かな教養、そんなの常識!、…べき、ねばならない、などなど。「こだわり」が十字架を骨抜きにし、教会を、あなたの信仰を、あなたの人間関係をダメにする。イエスは今も言い続ける。「それがナンボノモンヤ!」