信者の十牛図
使徒ヤコブの手紙3,16-4,3
2003.9.21記
愛する皆さん、ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあります。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、穏和で優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
何が原因で、あなた方の間に戦いや争いが起こるのですか。あなた方自身の内部で争い合う欲望がその原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることが出来ず、争ったり、戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
エート、まさ君はいつでもお母さんにハイと言えますか?
ウン、とコックリ。後ろでお母さんは首ひねり。
アリャ、イヤいいことなんです。でも話しがしにくいなア。
じゃ、直美ちゃんはどうですか。お父さんやお母さんにいつでも ハイと言えますか?ウ~ン、と首を横に振ってくれた。
だから、直美ちゃんの心は二つある。一つは、ハイと言える心と もう一つは、イヤと言う心。
さすが四年生、これも認めてくれた。
このイヤという心は自分にハイという心なので、我が儘の心です。ヤコブが言う「義の実」とは、自分にではなく神様にハイと言う心のことです。我が儘の心は争いやねたみを引き起こしますが、神様にハイと言える心は、周りの人に優しさや暖かい雰囲気を与えます。
話は違うけれども、あの直美ちゃん、お父さんっ子で、お父さんの腕にしがみついて甘え上手なんです。
ところで、十牛図(じゅうぎゅうず)。一人の青年が森に向かう絵に始まり、牛の足跡に次いで岩陰にしっぽ発見。とっつかまえて連れ帰って飼い慣らし、牛にまたがって笛を奏でるほどに。七つ目の絵になると牛は消えて青年一人。、やがて、全て消えてただの○。そして、流れのほとりに花を咲かせる美しい梅の木?一本。十枚目は身をかがめる少年の前に立つ温顔の大きな老人は目的を遂げた青年の姿。禅の教科書で、牛は自分が探している本当の自分を現しているのだという。
聖書は、禅の手法とは違うようで、手順を踏まない分、ぶっきらぼうな感じもする。「何で戦いや争いが起こるのか!」今日のヤコブのように、突然、叱られたみたいで、面食らってしまう。「自分の楽しみばかり考えて、動機が不純だからだ」と一喝されても、「ま、それはそうやナ」とあっさり認めるが、かといって、本当の自分探しの旅に出ようと本気では考えたりしないし、もちろんそういう人もいるにはいるが、それほど落ち込みもしない。何故か。
今日の福音にヒントがある。弟子たちは、受難と復活を予告するイエスの「言葉が分からなかった」(マルコ9,32)が、それほど意に介することはなかった。その証拠に、道中、「誰が一番偉いかと議論し合っていた」(マル9,34)ぐらいだから。
つまり、分からない、すなわち師の苦悩を共有できないほどにボーっとした感性の持ち主たちがイエスの弟子として、私たちの信仰の源にいて、そのボーっとした集団にイエスは愛想を尽かさなかった。だから、この自分がボーっとしていようが、自分の楽しみばかり考えようが、コイツはダメという烙印を押されることはあるまい、と。要するに、どんなに叱られようが、どんなに怖い言葉を聞こうがタカをくくっていられるのだ。親に向かって、平気で、何度でも、イヤを繰り返す我が儘な子供に似ている。言うなれば、信者とは甘えることを知っている子供みたいな者。
で、信者の十牛図を描くとすれば、ある時は預言者たちが、ある時は弟子たちが、ある時は、聖人たちが、ある時は、尊敬する人々が、ある時は見知らぬ旅の人が、ある時はとんでもない災難や病気が…、などなど。足跡であったり、しっぽであったりするわけだが、それら一枚一枚の絵からいつでもあぶり出しのように浮き上がる一枚の絵。それが、少年の前に立つ大きな温顔の老人。ただ違うのは、少年は老人の両手に抱かれ頬をスリスリ。この老人こそ、御父であったりイエスであったりする。そして、少年こそが、家出の旅から戻った甘え上手な次男。この絵こそ、ぼくの全ての始まりであり、終わり。