怒りのサンデー
マルコによる福音9,38-43 45 47-48
2003.9.28記
(略)42私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせるものは、大きな意志を臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
もし片方の手が、あなたを躓かせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手そろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
今日は何という日か。モーセ(第一朗読民数記11,25-29)にしろ、ヤコブ(第2朗読ヤコブ5,1-6)にしろ、苛立ち、激怒。しかも、上記の福音では仕上げとばかりに、イエスの激高。
小学校の頃、山野を駆けめぐっているうちに中学生になってしまったボクが、勉強しないことで一度だけ父に罵倒されたことがある。さすがに父も腹に据えかねていたらしいが、「遊び回ってばかりいる足なんか切り捨てろ」とは言わなかった。父の怒りには原因があったが、イエスの怒りには原因すら分からないので戸惑ってしまう。
「あ、そうだ。直美ちゃん。ここだけの話しだけど、お父さんは怒ることがある?」
「あんまり…」
「じゃあ、ジョナサンは?」
「ときどき…」
「で、ジョナサンが、怒られるようなことをした時、隣のおじさんはお父さんのように怒ると思うか?」
「思わない」
「どうして?」
「……」
「隣のおじさんは、お父さんほどジョナサンを愛していないからです。お父さんのように、ジョナサンに期待したり、責任を感じたりしないからです。そんな風に思うと、イエス様の怒り、本当は怒っているのではないと思うが、手や足を切り捨てろとか目をえぐり出せとか、口にするのも怖いようなひどい言い方をした理由が少し分かるような感じがします。
あの放蕩息子を迎えたお父さんの話を作ったのはイエス様でした。チョウ親ばかの神様を紹介したかったのです。今日ここに来ている私たちに、イエス様が期待しているのは、みんなのお父さんよりもチョウ超優しいお父さんである神様の気持ちを踏みにじるようなことだけはして貰いたくない、ということです。私たちは、しょっちゅうお父さんを悲しませるようなことをしても平気だけど、イエス様には我慢できないことだったんです。イエス様がお父さんを思う気持ちは、私たちの何百倍も大きいので、つい乱暴な言い方になったのかなあと思います。イエス様は、みんなが、神の国、つまり、お父さんである神様の気持ちの分かる人たちに満ちた社会を築く人になって欲しいとずっと願い続けておられるのです。そんなイエス様の熱い思いに感激したヤコブも、イエス様に負けないくらいアツクなったので厳しい言葉がポンポン飛び出したのです。
で、わたしたちも、イエス様やヤコブほどアツクならなくてもいいのだが、神の国は、ここにいる私たちにかかっているのだからよろしく、言われるイエス様の気持ちを、もう少し汲んであげられる一週間になっtらいいなあと思います。」