神様の人間賛歌
ヘブライ人への手紙2,9-11
2003.10.5記
私たちは、「天使たちよりも、わずかの間、低いものとされた」イエスが、死の苦しみの故に、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって全ての人のために死んで下さったのです。
というのは、多くの子らを栄光へ導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全なものとされたのは、万物の目標であり源である方にふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、全て一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされないのです。
今日の朗読は、まるで、選挙運動の応援演説を聴いているような錯覚に陥った。あなたも、何度も繰り返し呼んでいるうちに、きっと、「そう言われてみれば…」という気になるに違いない。
話は突然変わるが、福音書が四つもあるのに、それに勝る数の手紙がどうして必要だったのか?福音書では、不足だったのか?そう言えばそうかも知れない。また、誕生した各地の信者たちを励ましたり、養成したりする必要から場合もあるし、問題を解決し、混乱を収拾するために書かれた場合もある。
本書は紀元90年以前に書かれたものだと言われる。そのころ、すでに、物質は悪の産物だから肉体を持った神などというのはあり得ないとする説(グノーシス主義)、つまり、イエスは人間ではないと主張する人々が現れ、信者たちの中に動揺が広がった。みことばが人となったということは、知的に頑固な人々には、受け入れがたいことだったに違いない。
不安の中にいる信者たちへの答えが、今日の本文。イエスが、「死の苦しみの故に、栄光と栄誉の冠を授けられた」死と復活という神の恵みの事実が全ての疑惑を払拭する。著者は改めて信仰の原点に立ち戻るよう信者たちを促す。神様の救いの業への支持率低迷を阻止するために立ち上がった著者の思いとは。
神が人となる。神が人に親しみを持つだけでなく、いっそのこと人となって、人と共に生きようと決意したほど人に魅せられた神の、愚かなまでの人間賛歌。それが受肉の神秘。知的過ぎた人々には、イエスの中に隠された神のそんな思いにオモイ至ることはできなかった。グノーシス主義者の悲劇。そして、あなたもその一人?
救いの歴史が、実は、神様の人間賛歌だったとは!イエスの死と復活を通して神様の深い思いと出会った著者は、「お返しをさせてください」とばかりに壇上に駆け上った。そして、神様の計り知れない思いを、自分たちの小さすぎる器に収めることが出来ずに戸惑っている信者たちにこぶしを振り上げた。「頭の信仰から離れ、もっと素朴に、単純に、恵みの世界に目を向けるがよい。イエスがあなたを兄弟と呼ぶ姿に目を細めている御父のまなざしと出会えるのだ。その時、あなたの全ての疑惑が解け、自由の空へ羽ばたいていけるのだ。」
あなたは、神様の人間賛歌にどんなお返しを?