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あなたは狙われている

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 15時57分

今週の聖書

イザヤの預言53,10-11 

2003.10.19記

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの捧げものとした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は、自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。

今週のポイント聖書の読みづらさというか、何言ってるんだか、スッと頭に入らないところがじれったい、と不満に思う人は少なくないのではないか。しかも、今日の冒頭のように、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ」と来ると、何と無慈悲な神様なことかといぶかしく思う。そして、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」と結ばれて、「あ、救い主イエス様のことを預言したのか」と納得して、「なるほど」で終わることになる。

 もう一つ気になるのは、預言。例えば、イザヤは、神様からどんな風に聞いたか知らないが、神様から聞いたことを伝えるお知らせ係りのイメージがないか。それはそれで間違っていないかも知れないが…。
 だが、預言者たちも私たちと同じ生身の人間として、苦しみもだえた体験があるという認識こそが、読みづらさを克服し、神の思いとしての預言の心に迫ることが出来ることを見落としてはならない。そうして、上記の本文を読んでみると…。
 それから、もう一つ気になることは、神様にも付き合いやすい人とそうでない人がいるようで…。

 イザヤがどんな災難に巻き込まれたか知らないが、主がそう望まれたなら仕方がない。それにしても、自分がこんな目に遭うのは一体なぜ?償い?そうかも知れない。ウ~ム。よく分からない。ま、主がお望みというのであれば、何とか踏ん張らないとね。(苦しみ抜いたあげく)いやー、参ったな、マッタク!それにしても辛かったゾ!でも、逃げ出したりしないで良かった。それに、少なくとも、神様を裏切らなかった感じはするナ。ま、何かのお役に立ったのなら、よしとするか。ま、しかし、神様、こんな辛い思いはもうこれっきりにして欲しいです。(他の司祭じゃなくてアンタだったからやって貰おうと思ったんだゾ)そうだったのか!神様との旅を、もっともっと地に足をつけて歩みたいという力のみなぎりも実感。

 …この夏のことが蘇った。

 あ、そうそう、言いたかったことは、ボクのことじゃなくて、「神様は病に苦しむ人を打ち砕くようなことをなさるのか?」だった。たとえ、「神も仏もない」と見放された実感に打ちのめされる場合があるとしても、「断じてない!」冒頭のことばは、生傷に塩をこすられるほどの辛い体験を乗り越えたイザヤの感想に過ぎない。自分の苦しみを、「主が望まれたのだ」と解釈で来た時に出た言葉であって、人ごとみたいに描いているのは、まさに預言者としての公的態度と言える。しかも、かれは、個人の感想を超えて、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を負った」のだと、自分の苦しみの意味を明確にすることを恐れない。ボクには、そこまではっきりさせる自信はないが、少なくとも、十字架のイエスにつながっているらしいところで歩みを再構築することが出来そうな気配がいつもあるのはありがたい。

 苦難は避けて通れない神秘。あなたの小さな世界の世直しへの道。次のターゲットはあなたかも知れない。あなたは狙われている匿名の預言者。ハズレを祈りつつ…。  


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