見えなかった人は誰か?
マルコによる福音10,46-52
2003.10.26記
イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされた時、ティマイの子で、バルティマイという盲人で物乞いが道ばたに座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んできなさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をして欲しいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、直ぐ見えるようになり、道を進まれるイエスに従った。
ヤッター!盲人は思わず立ち上がり歓声を上げながらイエスに駆け寄った。まさに、千載一遇。初めて目にする外界のまぶしさ。聞き慣れた声を口にする人々を判別できた出会いの感動。歓喜に酔いしれる元盲人を囲んでワイワイ騒ぐ群衆をおいて、さっさと先を急ぐイエス。気がついた元盲人が、チョ、チョット待ってください!とか何とか声を上げながらあわてて後を追った。
老眼が進んだとは言え、見えなくなった不自由さを知らないながらも、元盲人の喜びに迫ろうとしたのだが…。確かに興奮に値することなのだが…。
しかし、いつものことなのだが、こうした劇的癒しの非現実性を思うと、元盲人へのひがみというか羨望というか、ワシには関係ない話しジャ、とすねてしまう。
ま、こうして一通り、イエスにイチャモンをつけながら、それでも、再読してみてふと気がついた。見えなかった人は盲人を叱って黙らせようとした人たちではないか。
イエスと弟子たちを取り囲む群衆。その輪の外に離れている盲人バルティマイ。イエスに気を奪われている人々にとって、バルティマイなどメではなかった。叫び声に振り向いたとしても、彼の深い悲しみと闇から解放されたいという渾身の叫びなどただの騒音でしかなかったのだ。それだけではない、イエスが、こんな盲人を相手にするはずがないという勝手な読み。多分弟子たちも…。
そんな中で、まっすぐ盲人に目を向けるイエスの存在が光る。まさに、闇の中で燦然と輝くイエス。すると、弟子たちと群衆が黒く塗りつぶされ、イエスと盲人だけがあぶり出しのようにあらわになった。だが、それは、盲人癒しのドラマというイエスと盲人の二人芝居を意味するものではない。むしろ、黒く塗りつぶされたその他大勢の登場人物こそがこのドラマの主題をなしているのだ。
で、このドラマのタイトルは?「見えなかった人は誰か?」塗りつぶされた一人が力無く言った。