一区切りの永遠性?
使徒パウロのコリントの教会への手紙2コリント4,14-18
2003.11.2記
主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなた方と一緒にみ前に立たせてくださると、私たちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。
だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです。
11月2日は死者の日。人生に決定的一区切りをつけた人々を記念する日。
区切りと言えば、幼稚園では運動会は三大行事の一つ。これが終わると、確かに一区切りつく感じがする。そして、お芋掘りに、修園旅行、どんぐり拾いと楽しいことが続く。当局側にとっては園児募集の季節がやって来て気が抜けない。子供が集まろうがどうしようが、クリスマス会という次の行事が迫ってくる。それに今年は、降誕劇の台本のバージョンアップも課題。あれやこれや一区切りついたら手をつけないといけない。人並みに、生活に追われる毎日?
これでもか~とばかりに次から次、いろいろなことに追い立てられている感じは否めない。そして、読みたい本や聴きたい音楽や部屋の掃除や書類の整理などなど、気がかりなまま…。そんな中で、乱雑なテーブルを片づけただけで、ダラダラに区切りをつけて前進したようで心が躍ることがある。
ところで、一区切りの永遠性?だって?あ、そうそう。自分のことはどうでもいいとして…。
で、実は突然だが、パウロも自分の体力の衰えを実感していたようで、ことさらに、「内なる人」を強調します。艱難辛苦をなめ尽くしたはずの熱血漢パウロが、(そんなもんは)「一時の軽い艱難」と言い放つところがスゴイ。この「内なる人」への開眼をもたらしたものは何だったのか?
ダマスコ途上でのあの驚天動地の出来事(使徒9章)があったことは間違いない。落馬、失明という悲劇もさることながら、何よりも迫害の相手を、あっさり、「復活の主」として信じ、受け入れることが出来た不思議な体験。復活のイエスの強引とも思える招きにあっさり降伏したパウロ。
イエスの復活を信じることによって、功を遂げ名をなして、皇帝の前に立つという彼の野望は、「外なる人」の価値として、「神の前に立つ」という永遠の栄光を目指す「内なる人」に取って代わられた。これこそ、パウロの復活体験。大きな一区切りだった。
しかし、パウロにとっての大きな区切りとなった出来事。実は、ダマスコ途上のアレではなかった。いや、それに勝って、イエスの死と復活こそ、彼の人生に決定的区切りをもたらした究極の一区切りだった。これまでの彼の人生のあらゆる営みが、信じようと信じまいとに関わらず、意識しようがしまいが、この究極の一区切りに向けられていたという真理の発見。この真理と無関係な人生などなかったのだ!「内なる人」に覚醒した時。
下は日常繰り返される一区切りから上は、死という一大区切りに至るまで、人生のあらゆるドラマが演じきろうとして憧れて止まない究極の一区切り。
神の前に立ち、憧れを満たしたパウロをはじめ、友人知人、そして先祖の皆さんにカンパ~イ!
それにしても、テーブルの整理ごときがねー。
ま、一区切りついたところで、ビートルズでも聴くか。