我がこころのエン・ゲディ
エゼキエルの預言47・1:8-12
2003.11.8記
見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。彼(主の使い)は私に言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入っていく。すると、その水はきれいになる。川が流れていくところはどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れるところでは、水がきれいになるからである。(略)漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライに至るまで、網を広げて干す所となる。(略)しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることが出来る。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることがなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用になる。」
バビロン捕囚。すなわち、イスラエルの人々が国を追われ、異郷の地バビロン(イラク)で過ごした七十年。その時活躍したのが預言者エゼキエル。失意の中にある人々にとって、今日の本文はどれほど慰めと希望をもたらしたことか。
彼が見た幻の海は死海のことらしい。しかし、死の海の名の通り魚は捕れない。そういう意味では、幻は事実を厳密に言い当てるものではない。6年前に行ったエン・ゲディは、確かに魚も捕れず、あらゆる果樹が実をつけるわけではなかった。もっとも、宿泊したキブツ(ユダヤ人入植地)は緑豊かな別転地だったが…。
そのエン・ゲディは温泉の湧く保養地。ミネラル豊富な干潟の泥を全身に塗る豪快などろんこエステに海水浴。そして、仕上げは塩分の強い温泉。ユダヤ人もアラブ人も同じ泥を塗ってはしゃぎ、同じ湯壺に身を沈める。温泉に隣接する休憩所では、長いすで昼寝をしたり、スナック片手にビールを飲んだり、思い思いにくつろぎ、心身リフレッシュ。そして、帰りは、売店に立ち寄り、死海の泥から作るという石鹸、化粧品を買うのがお決まりのコース。
2500年前にエゼキエルが見た幻は、形を変えて、あのエン・ゲディの保養地で実現していた。緑の代わりに汚いだけのあのドロが、きれいな水の変わりにしょっぱい温泉が、魚の代わりにドロ製化粧品が多くの人々を呼び集め、憩わせ、心身を生き返らせ、平和で満たしていたのだ。アラファトもシャロンもあの温泉で和平を話し合えばいいのに…。
あ、今日は、エゼキエルの幻を実証するのが目的ではなかったのに…。国を失う悲劇の中にあっても、あんなにも生き生きと、心躍るような幻を描けたエゼキエルの感性の豊かさに心楽しくなっただけだったのだ。そして、エン・ゲディの名に、つい思い出が蘇っただけだったのに…。
しかし、実を言うと、「これは逆境だ」と感じれば感じるほどパニックになるだけの状態からエゼキエルのユーモア?の世界へと進化したいという思いやセツ。
ともあれ、今日は、ローマ司教(教皇兼務)座聖堂・ラテラン教会の記念日とか。つまり、エゼキエルの夢を生きる「信者の集まり」(教会)を記念する日のことで、お互いのエン・ゲディを祝う日。だから、おめでとう。