祭司になった東方の学者たち
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 13時30分
マタイによる福音2.1-12
イエスは、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東のほうからエルサレムにやってきて言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは、東方で、その方の星を見たので拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆同様であった。王は、民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。』」(略)
彼らが、王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに、幼子のいる場所の上にとまった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は、母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬(もつやく)を贈り物として捧げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった。
マタイは異邦人にこだわる。
「…彼は異邦人に正義を知らせる。」(12,18)
「神の国は…み國にふさわしい実を結ぶ民族(異邦人ー聖書協会訳)に与えられる。」(21,43)
そして、今日の東方の学者たち。多い例とはいえないが…。少なくとも、学者たちの来訪は、マタイだけの記事で、ドラマチックに仕立てられてさえいる。
マタイは、東方からの学者たちに特別の意味を課そうとしているかのようである。
拝む。夢でお告げ。これらがキーワード。異邦人たちが幼子を拝む。まさに神に対する礼拝行為。夢は神の出現。それに「喜びにあふれた」は、なんと、神からの救いを見出した人の喜びを表すのだという。
彼らは、占星術者としての探究心から、不思議な星の正体を見届けてやろうとして、冒険旅行を計画したのかもしれないが、神と出会ったのだった!幼子が何者なのかをも知った。マタイはそう理解した。
で、彼らは、帰国後、家族や仲間たちに、神の不思議な業を目の当たりにしたこと、光り輝く幼子のこと、そして、帰りの旅が、星ではなく神ご自身の導きによって無事果たされたことなど、興奮しながら話したに違いない。東方の人々は、珍しい話に、目を輝かせ、ため息をついたり感動したりしながら熱心に聞いたことだろう。もっとも、砂漠を越えての過酷な旅を無事終えたとしての話だが…。
いずれにしろ、重要なことは、彼らが、神の福音を人々にもたらした最初の人たちだったという位置付け。それは、良きおとづれに触れた人々が、西方を仰ぎながら、神の働きに思いを馳せるようになったことを意味する。人々と神との間に立つ者。これが祭司。星占いたちの予期しなかった結末。で、彼らは、さしずめ、「洗礼を受けていない神の祭司たち」ということになる。
ひるがえって、周りを眺めると、血なまぐさい事件が頻発する中にあって、この手の祭司たちたちが沢山働いていることに気付くわけ。もっとも、彼らには神と出会っているという自覚は無いかも知れないが、それはたいした問題ではない。
身近なところでは、90才になる母のお世話をしてくださる十数名のヘルパーたち。彼女たちに、そして、そんな境遇に居合わせていることを神に感謝しないではおれない。彼女たちが、この司祭の僕を神に向かわせてくれる。洗礼を受けていない神の祭司たち!
各地にいる無名のこうした、「東方の学者たち」の数ははかり知れない。すさんだ社会の波に飲まれることの無い、己を無にして働く数多くの祭司たちこそ神を表しているのだ。彼らと神の現れ方に乾杯!洗礼を受けている祭司の皆さんにも。