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不自然さの真意 --カナの婚礼の実体--

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 13時34分

今週の聖書

ヨハネによる福音2.1-2

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」しかし、母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。(略)イエスが、水がめに水を一杯入れなさい」と言われると、召使たちは、かめのふちまで水を満たした。イエスは、「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言われた。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。(略)「誰でも、初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今までとって置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

今週のポイント今日は、ヨハネの、普通の言い方をすれば編集、わざと悪く大げさな言い方をすれば歴史の改ざん、神学的考察といえば更に大げさで取り付く島が無いのだが…。

彼は、歴史的事柄をのべ伝えることを第一の目的とはしていないという。つまり、出来事を反芻して、自分なりの視点で出来事の深い意味を解き明かそうとした神学者といえる。しかし、時間の流れやその組み立て方には周到な計算をめぐらしてもいる。そいう意味で、カナの婚礼の出来事は、確かにあったこととは思うが、ヨハネは単に奇跡の話をしようとしているのではなさそう。

まず、突然、「三日目に」という書き出し。あなたが普通の信者なら、「三日目に」と言えば、復活を連想するはず。それに、「栄光を現された」と読むと、これまた、あなたが普通の信者なら、「復活の栄光」「栄光の主」などという慣用句が思い浮かぶはず。更に、「ユダヤ教で決められた清めの水ををぶどう酒に変えた」ということで、ユダヤ人には嫌味に聞こえるかもしれないが、婚礼の主催者にも出席者にも喜びをもたらす芳醇なぶどう酒を提供して急場をしのいだ、まさに、救い主。それは、とりもなおさず、ユダヤ教に取って代わる新しい救いの到来を意味する。

神学者ヨハネの洞察はこれで終わらない。カナのあとはイエスのエルサレム旅行が始まるが、ときあたかも、過ぎ越し祭の頃(13節)。過ぎ越し祭といえば、最後の晩餐。最後の晩餐といえばミサの制定。ここまでは、教会学校のレベル。更に、レベルを上げると、婚礼は神との宴の象徴(マタイ9,15)。そして、「この最初のしるし」と読むと、「洗礼、堅信、聖体、婚姻、ゆるし、病者の塗油、叙階」という七つの秘跡は神の恵のしるし。とくれば、教会学校の校長レベルだ。

で、あのパンを増やした話とそれに続くパンをめぐる問答(6章)が聖体、つまり、ミサのことを言おうとしているのだということに着目すると、「パンを増やした」は「ぶどう酒を増やした」と呼応する。ということで、カナの婚礼の話でヨハネが思い描いていたことは、実は聖体祭儀、つまりミサのことだったのだ!

パンというしるしのうちに現存するイエス。参列者のうちに現存するイエス。なるほど、同じようなもんだワナ。それにしても、カナの婚礼の話がミサの話になるとはね。

神学者ヨハネの洞察はまだ続く。
「三日目」というのは、実は、「七日目」のことなのだ。聖書をめくるとすぐわかることだが、先駆者ヨハネの活動から数えると七日目ということになる。七日と聞くと、あなたが、普通の人なら一週間のことを、普通の信者なら、天地創造の話を連想するはず。そして、アダムとエワの話。エワとは命という意味(創世記3,20)。

ヨハネの意図は、もう、明らか。マリアは新しいエワ。新しい命の母。救い主の、そして、彼を信じる人々の。で、飛躍するが、居合わせた弟子たちは教会の代表。居合わせたといえば、あなたが、校長レベルなら、十字架の下に居合わせた「マリアと愛する弟子」のことを連想するだろう。そして、またしても、「婦人よ」と実の母に呼びかけるイエスの不自然さも。この愛する弟子こそ全キリスト者を現しているということになっているのだが…。実は、みんなヨハネが考え、ヨハネが言わせているのだ、と考えると納得が行く。

で、イエスの受難を描くヨハネの思いと婚礼を描く思いは同じということになる。なるほど、聖体の秘跡は、十字架の生贄の再現、という。

さて、長くなったが、今日はあなたの知的欲求を満足させたか。それとも、ヨハネを手にとって、カナの婚礼の実体に迫ってみたくなったか。後者であることを願いつつ…。


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