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大聖年は終わらない(注)

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 13時36分

今週の聖書

ルカによる福音4,14-21

イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、みなから尊敬を受けられた。イエスは、お育ちになったナザレに来て、いつもの通り安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目にとまった。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵の年を告げるためである。」イエスは、巻物を巻き、係りのものに返して席に座られた。会堂にいる全ての人の目が、イエスに注がれていた。そこで、イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時実現した」と話し始められた。

今週のポイントローマのバチカンには聖年の扉というのがあって、先の日曜日に閉じられた。そして、いわゆる、大聖年 は終わった。沢山の人がそこを通ったのだろう。そして、それなりの感慨を覚えたことだろう。しかし、見たことも、まして通ったこともないボクには、やはり、遠いところの話にしか聞こえない。

ところで、「この聖書の言葉は、今日、…実現した」と呼ばわるイエスの声は、2000年の時を越えて
耳元にこだまして来るようだ。

聖書は例によって、そっけない書き方をするが、実際はどうだったのだろうか。「親愛なる故郷の皆さん…。」ボクには、晴れ晴れとしたイエスの顔が浮かぶのだが。まず、「霊の力に満ちて」帰郷されたイエス。鼻息も荒々しく、肩をいからして敵陣に乗り込んでいくような形相だったのではない。何故か。イエスは、既に敵陣での戦いに勝利を収め(荒れ野での誘惑4,1-12)ての故郷帰還だった。どんな戦いだったのか。

飲まず食わずの四十日間。聖家族というが、現実は、赤貧洗うがごとき惨めなものだったらしい。日々おごり暮らす金持ちへの憧れ(石をパンに変えてみよ)。一人の男子としての権力志向(私を拝め)。周りをあっと言わせるような自己顕示(飛び降りて見せよ)。ことごとく「ノー!」と答えたイエス。誘惑というぐらいだから、苦しい決断だったに違いない。

イエスが「およそ30歳の時」(3,23)に家を出るまでの詳細を聖書は語らない。荒れ野での四十日間が、象徴的期間であるとするなら、それは、若きイエスの懊悩そのものではなかったのか。先祖がたどった荒野。パンで騒ぎ、神を試み、そして裏切った罪の臭いに満ちた荒野。日ごと荒野にたたずむイエスの思いを誰が知ったか。30歳になってやっと踏ん切りをつけることができたイエスの「霊の力に満ちた」新しい気持ちの新しい旅立ち。それが、故郷帰還だったのではないか。そしてそれは先祖のしがらみからの解放だった。

で、実は、イエス自身の体験としての「捕われからの開放」であり、行動開始への見通しを立てることが出来た「視力の回復」。そして、先祖の罪へのこだわり(抑圧)から「自由に」された「主の恵」の体験だったのだ。そんなことがらを、まず、愛する故郷の人たちと分かち合いたい。それで、「話し始められた」(21節)のだったのだが…。(結末は来週判明)

そういうことなら、自分にもあるある!すっきり、晴れ晴れ!と手放しで喜べたわけではないが、なにか、こう、踏ん切りがついたというか、見通しが立ったというか、「よしやってみよう!」という気になって始めたホームページ。この程度はたいしたことはないとして、もうちょっと深刻になると、中世のネポティズム(身内びいき)になりはしないか、という長い間の葛藤から自由になって始めた母との生活。もっと、深刻なのは、信者たちとの確執…。あ、もうやめよう。

で、どんな荒野の果てにも、「神の恵みの年」は用意されているとの体験こそが、ボクを自由にし、ハレバレとさせている。

注:大聖年とは、かつてのイスラエルの民には貧富の差はなかった。後年、約束の地に入って、皮肉にも、貧富の差が生まれた。神の民としての本来の姿に戻ろうというわけで、五十年に一度、負債をチャラにし、手放した財産が手元に戻るようにした。その年の始まりを告げるのに羊の角で出来た笛を吹き鳴らしので、ヨベル(羊の角)の年と呼ぶ。歴史とともに、神の民としてよりふさわしい生活を目指すための和解と刷新という精神運動に変わった。


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