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全てを捨てて…

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 13時37分

今週の聖書

ルカによる福音5.1-11

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた。(略)話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの船にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの船を魚で一杯にしたので、船は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は、罪深い者なのです」と言った。とれた魚に、シモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイのヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは、船を陸に引き上げ全てを捨ててイエスに従った。

今週のポイント「全てを捨て」たなんて、せっかくの大漁だというのにもったいない話だ。もっとも、集まった群衆は、手一杯の魚を満面の笑みとともに持ち帰ったに違いない。だが、待てヨ…。

山とつまれた魚。集まった群衆。またとない、ビッグなビジネスチャンスに、久々に潤った貧しい漁師たちとその家族。夢のような大漁から再び日々のつましい漁に戻ったシモンとその仲間たち。漁の合間に蘇る主の言葉。「恐れることはない。今から後、人間をとる漁師になる。」漁はベテランでも、「人を取る漁師とは…???」網を繕いながら、今日も、結論のでない問答が続いた。

学問のないシモンとその仲間たちではあったが、はっきり言えることが一つあった。「その通りに」したら、「おびただしい魚がかか」ったということだ。漁のベテランたちが初めて受けた部外者からの指示。プライドを踏みにじられた悔しさではなく、何日たっても消えることのない心に広がる不思議な穏やかさ。長年使いこなしてきた船と網。それらは彼らの人生そのものだった。それらのない人生など想像だにできない。だが、今、何かかが違うのだ。腕一本、経験とカンでたたき上げた海の男たちが初めて体験するもう一つの人生への誘(いざな)い?そうだ、船でもない、網でもない。あの方の「ことば」で始まる全く新しい漁への転職。そして、エキサイティングな主との旅。やがて、究極の転機。受難と復活。聖霊降臨。そうして、ようやく到達した一つの理解は、「捨てることはより大きな価値を選ぶこと」だった。

そんなこんながあって、このルカの記事は生まれた。

前置きが長くなったが、漁師の経験のない大方の人にとっても、「全てを捨て」る過程は共通しているが、果てしなく違うようにも思える。ボクにとって、捨てることが難しいのは、自分のプライドや立場。頑固さ。わがまま。などなど。一週間がたって気がついてみると、「…夜通し苦労しましたが、何も捕れませんでした」というシモンの世界にいる自分と教会の現実。

「そんなキリスト教は間違っている。」クスリを使わないで治療しておられるという「のじま医院」*の先生に喝破(かっぱ)された。ぐの音も出なかった。


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