現在の場所: ホーム Binder 日曜日のはなし 2001年 「貧しいあなた」は幸い
ナビゲーション
最近のエントリ
ペトロパウロ休日 2014年06月29日
有難うシスターたち 2014年06月27日
大分教区司祭研修会 2014年06月26日
32年ぶり班制度 2014年06月24日
梅雨の晴れ間に 2014年06月19日
 
編集操作

「貧しいあなた」は幸い

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 13時38分

今週の聖書

ルカによる福音6.20-22

さて、イエスは目を上げて弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである。今、飢えている人々は幸いである。あなた方は、満たされる。今、泣いている人々は幸いである。あなた方は笑うようになる。人々に憎まれる時、また、人のこのために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなた方は幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

今週のポイント「貧しい人々は幸い。」
「日本には貧しい人はいない。なぜなら国が金持ちだから。」かつて、そう思っていた。今もそう思うことがある。この目で、貧しい人々を沢山見た。ボンベイの道端で、生まれる子供たち。店先であろうが地べたに眠りこけるやせた男たち。教会の門前で物乞いするらい患者たち。マニラのごみの山に群れる子供たち。信号で止まる車に近づき、痩せ細った腕を伸ばす親子。その度に、胸が痛み、身がすくむ思いがした。そして、「国が悪い」と腹立たしかった。いまだに忘れることの出来ない恐ろしいほどの貧しさだった。

そんな貧しさを身に受けた人々が幸せだとは!

この話を、そんな風に読みたくなるが、口が裂けてもボクには言えない。またも、イエスの真意を疑いたくなるのだが…。

先ず、冷静になってよく読むと、これは弟子たちに向けて語られた。その弟子たちは、まさに、貧しい人々だった。二千年前の貧しさはきっとハンパではなかったに違いない。

聖書は、文字通り感じるままに読んでもいいとは思うが、一ひねりふたひねりしてみると、なんとなく聖書の世界の細道を見つけたような楽しい気分になって、分かりやすく言ってくれないイエスを許すことも出来たりする。

いつもの癖で、前置きが長くなったが、弟子たちは、「一握りの集団。しかも貧しい。」こう来ると、これは、いわば聖書の決り文句見たいなもので、「ヤーウェの貧しい人々」、「残りのもの」、そして「ヤーウェの僕」とつながる。いずれも、神の前で誠実に信仰を生きている人々のこと。

世の富や権力とは縁遠いガリラヤの田舎で、ひっそりと素朴に生きている弟子たちこそ、神の夢を語る人々として一番ふさわしい。飢えていることも、泣いていることも悲惨なことには違いない。しかし、それでも、「目を上げて」生きて行ける体験が出来たら。長年親しんできたユダヤの社会から追い出されようが、イエスと一緒に神の夢を追いかける人生がある。かつて、アブラハムが故郷を離れ、また、先祖たちがエジプトから追い出され、神の約束された地に向かって勇んで旅立ったように。そんな新しい世界への旅のはじまりに同伴を許された「一握りの貧しい」弟子たちは、だから幸い。

イエスの熱い思いは、先祖がたどった幾万里の道程を駆け巡り、目の前の弟子たちに、そして、今、あなたに届けられた。


Powered by Plone CMS, the Open Source Content Management System

このサイトは次の標準に準拠しています: