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資質が問題:教育的弟子/共感的弟子

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 13時44分

今週の聖書

ルカによる福音6.39-45

盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師に勝るものではない。
しかし、誰でも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太をみないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」とどうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことが出来る。
悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からイチジクは採れないし、野バラからブドウは集められない。良い人は、良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。

今週のポイント首相の支持率が10.何パーセントという。それでも本人はやる気満々だという。野党がよってたかって袋だたきにしても、マスコミがなんと報道しようとも、「資質に欠ける」と叫ぼうとも平然と生きていける。一種の資質に違いない。そして人々は、ついに、彼の中に、「打たれ強い」という資質を発見した。

「打たれ強い」と言えば、イエスほど打たれ強い人はいなかった。袋だたきどころか、なぶり者にされ、ついには犯罪者と同じ仕打ちを受けて殺された。と思いきや…。「死は勝利に飲み込まれた。」(今日の第二朗読ー1コリント15,54)死さえも彼を打つことは出来なかった!何というシシツ。

ところで、今日の福音は、弟子たちに向けられた「裁くな」の続き。つまり、弟子の資質を求めるくだり。

まず、「盲人が…目の中の丸太」のたとえは、「裁くな」の線上にあることを忘れてはいけない。裁きたがる弟子、つまり、教育的配慮に富んだ弟子ではなく、共感的弟子となるように、「十分に修行を積め」なのだ。

で、面倒な理屈はおいて、何かがはっきり見えた体験を探してみると…。
貧しさ故の「中卒」に泣くE君の深い劣等感と哀しみを知ったとき。上ばかり見ていた自分を「はっきり見」た。
ヘルニアで入院したとき、「歩けるようになりたい!」強烈な自分の願望を「はっきり見」た。歩けない人の哀しみも!
つい最近、手を引かれてこわごわ歩く母を見ながら、「自分もこうなるかも知れない」と思う自分を「はっきり見」た。そうしたら、急き立てることなど出来なくなった。歩調を合わせるしかないのだ。そうして、気がつけば、「育てられているのは自分ではないか」という事実を「はっきり見」た時はさすがにショックだった。

などなど。人の痛みや哀しみへの共感。これこそ、「裁くな」の本心。裁きの対極。

も一つおまけに。
「人生、金がすべてだ!」と誰かが真顔で言ったとする。「いや、それは違う!」とすぐ反論するか。そうではなく、「フーム、そうですね…」とまず頷くなら、彼の悲しい過去を聞くことが出来るかも知れない。そしたら、「あなたの正論がマチガイ」であることに「はっきり」気づくだろう。大切なことは「はっきり見る」こと、「はっきり感じること」。要するに共感することなのだ。ボーっと見たり、ぼーっと感じるのではダメ。そのため、「十分に修行を積」む弟子となれ。

共感的弟子となるか教育的弟子となるか。あなたに選択の余地はない。

オット、まだ、「悪い実…」が残っていた。
「悪い実を結ぶ良い木はなく…ですって?日本では、鳶が鷹を生んだ、と言ったりしますがね。」「遺伝子操作で、そのうち、茨からイチジクを作ったりできるようになるかも知れませんよ。」

そんな動議を出したくなるが、これも基本的には前と同じ。

またまた理屈ではなく、自分のことを見ると…。ここは一般的に言おうかナ。
なんにしろ、イヤイヤながらやったら、傍目にもそれと分かるかも知れないが、第一、やった後でいい気分ではないことは自分が「はっきり」分かる。何よりも、人生の実りはない!そして、逆に、充実感を体いっぱいに「はっきり」感じる結果で終わったら、あなたの人生の実りは間違いなくある!

で、「良い木…悪い木」は自分の生き方の質の問題。要するに、なんだかんだ言っても、「人の口は、心からあふれ出ることを語る」のだから、弟子たる者、自分の心の姿を「はっきり見」る「修行を積」まなければ、アンタは弟子の資質を問われることになるのだ。


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