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イエスの誘惑とは…

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 13時45分

今週の聖書

ルカによる福音4.1-13

イエスは、聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。さらに悪魔は、イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることが出来るからだ。だから、もし、私を拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで悪魔は、イエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせていった。
(略)

今週のポイントこれは、ヨルダン川での洗礼の後の話。
悪魔の誘惑。個人的な感性で言うと、悪魔、と聞いただけで、「作り話」という印象をぬぐえない。そもそも、「四十日」などという決まり文句がクセモノ。いずれにしろ、この話によってルカが訴えたいことは何か。

そのためのヒントは「聖霊に満ちて…」。
パウロは、霊の実りとして、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を上げている(ガラテ5,22)。すると、洗礼を受けた後のイエスは、人間としてもっとも理想的な精神状態にあったということだ。そんな状態のイエスにとって、人生は前途洋々、家運隆盛末広がり。というわけには行かなかった。何故か、荒れ野の中を引き回されるハメに。荒れ野。それは命の対極をなす概念。つまり、死の世界。

そんな充実したイエスの人生が、突然、不安と混乱、疑いと不信の淵に投げ込まれた。まさに、天国から地獄へ。つまり、霊の実りが消し飛んでしまうのではと思うほどに、イエスを消耗させた(空腹)孤独の葛藤があったのだ。自分自身を、「神の子」と確信するまでの。

命の充満した受洗後のイエスとそれを待ち受ける死の世界。この二つの世界の相克。大げさな表現になるが、これこそ私たちの日常生活ではないか。ある時、それがはっきり現れたりするのだが。そして、ついこんなセリフが。「私は何にも悪いことしていないのに、どうしてこんな事になるんですか。」「私は、いつもお祈りしていたのに…。」「神が愛というなら何故こんな事が…。」などなど。

良く知っているミホさんが急死した。しかも、旦那が留守の間に。しかも、玄関で倒れ、一昼夜誰にも気づかれることなく冷たくなった。訃報を受けて絶句した。「なんて悲惨な最期を神はくれたのか!あんなに熱心で、善意に満ちた人を!」出張先で知らされた善人夫しげる君の心境やいかに!平和な家庭が一瞬にして奈落の底に。

こんな事は滅多に起こることではないかも知れない。しかし、いつ当事者になるか分かったものではないのだ。いずれにしろ、「神は意地悪!」と根に持ち続けるか、神の計らいのあまりの深さと不可解さに脱帽するか。どちらかを選ばなければならない。誘惑は英語でtemptation。試みという意味だ。どちらに進むか、人生の選びが試される時が来る。

不安に襲われ、混乱し、落ち着かず、イライラし、人のことなど考えるゆとりもなく、暗雲がたれ込め、気の晴れない日々が来る。要するに、霊の実りがことごとく吹き飛んでしまうようなつらい出来事との回避できない遭遇。大なり、小なり、人生には付き物なのだ。そんな、ままならぬ人生を受容し、霊の実りを一個だに失うことなく、おん父との気高い人生を、死ぬ思いで、必死に選び取ったイエス。そんなイエスとかすかにでも共感できたら、ムクムクと霊の実りが再生する。そして、その時、あなたはイエスと同じ選びをしたくなるのだ。

「…しげる君と残されたみなさまの新たな信仰の歩みのために心から祈ります。」そんな弔電を送った。合掌。


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