変容への道のり
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 13時46分
ルカによる福音9.28-36
イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコボを連れて、祈るため山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は、栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスとそばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これは私の子、選ばれたもの。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。(略)
またも聖書学者のまねをして…。赤文字「最期(さいご)」と訳された言葉は、エクソドス。出エジプト記を呼ぶときも同じ言葉。旅立ちの意味。ホドス、道という意味も含む言葉。「こんなに素敵な言葉なのに…」と思う。政治の世界も分かりにくいが、旅立ちを最期と訳す人たちの霊性も分かりにくい。地上での最後=十字架、という発想なのか。日本的発想ではあるが、福音的な響きはしない。第一、イエスに最後などない。そう言う意味では、この訳語は、神学的に間違い。少なくとも曖昧。
偉そうなことはこれぐらいにして…。
この時期、日本でも様々な旅立ちがある。転勤。進学。就職。結婚などなど。必ずしも、歓喜の旅立ちばかりではないが、少なくとも、最期というブッキラボウな言葉はふさわしくない。私たちの信仰で、旅立ちは、出エジプト、主の過ぎ越し、復活につながる重要なキーワードなので大事にしたい。
ところで、今日の福音には、もう一つ大事な言葉がある。「…聞こえた。」
聞こえた、あるいは聞いた。見た。知った。聖書の中で、これらの言葉に出会ったら、要注意だ。いずれも、信じた、と同義語だと理解しよう。ついでに言えば、「…雲の中から…」の雲、火、山などという言葉も聖書の決まり文句で、これらの言葉に出会ったら「神と思うべし」だ。今日の場合だと、「弟子たる者、師であるイエスに聞き従うことなしにその人生はあり得ない!」というルカの強い確信の表明。と理解した方がいい。
ところで、これほどの強い確信ではないにしても、あなたも確かに聞いたことがある。その神の声とは…。
心配ばかりしても始まらないから、もうくよくよしないことにしました。
当たり前のことなんだけど、自分はどう頑張っても自分でしかないんだと思ったら、気が楽になって…。
あの時は、神様なんかいないと思ったりしたこともあったけど、神様は、もしかしたら、こんな事を自分に教えたかったのかなあ、と思えるようになりました。
いろんな事はあるけれども、大きな安心というか、…。
この人たちは、確かに聞いた。少なくとも、自分の内なる声を。自分なりの確信というか、納得したというか。要するに、何かが分かったのだ。そして、前向きな気持ちに変わった。ちょうど、「ラザロ、出てきなさい!」と大声で叫んだ(ヨハネ11,43)イエスの呼びかけに応じて墓から出てきたラザロのように、自ら掘った暗い墓穴からまばゆい命の世界に出てきたのだ。胸を張って生き始めたのだ。たとえ、自己嫌悪の墓場に戻ることがあったとしても、そこからでる術(すべ)を知った。だから、大きな安心がある。
この前向きな、積極的な、明るい感じの気持ちは間違いなく神からのものだ。そして、新たな旅立ちが始まる。これこそ、あなたの変容。あなたの復活とも言う。そして、繰り返される旅立ち。それが人生。そんな福音的人生観を最期は示してくれない。