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悔い改めなくても滅ぼされない!

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 13時48分

今週の聖書

ルカによる福音13.1-9

ちょうどその時、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちが、そのような災難にあったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深いものだったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人はエルサレムに住んでいた他のどの人よりも罪深いものだったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人が、ブドウ園にイチジクの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このイチジクの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせえておくのか。』園丁は答えた。『ご主人様、今年もここのままにしておいてください。気の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れませんもし、それでもだめな阿切り倒してください。。』」

今週のポイント「…悔い改めなければ、…滅びる」と単純に考えていないだろうか。確かに、パウロもコリントの教会への手紙で言っている。「彼らの大部分は、神の御心にかなわず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。」(1コリント10,5) しかし、「決してそうではない」のだ。

「災難は、罪の結果。災難を免れた私たちは善人。」当時そう信じ、そう教えている人々がいた。今もどこかにいそうな感じがするが…。そんな発想をすること自体、滅んだ状態であることに気づくべきであって、イエスは、そんなおごり高ぶった自己満足の信仰に厳しく反論する。「決してそうではない」と。従って、イエスの主眼は、この発想を否定すること。つまり、この場合、「…悔い改めなければ、…滅びる」にアクセントをおいているのではない。そして、忍耐し待つ神の愛の火の強さと永続性とを説きたくて「実らないイチジクのたとえ」を持ち出した。

イチジクの木が何年で実をつけるかは知らないが、「そろそろ実をつけるかな」と思った時期から三年通ったわけだから、額面通り理解すると、三年以上待ったことになる。それでも大したもんだと思うが、実は、「三年」は額面通り理解する必要はない。これも、聖書の決まり文句の一つで、「もう十分待った」という意味だ。それでも、まだ一年待つことにした!しかも、実をつける保証もないのに。拍子抜けするほどのアッサリだ。しかし、このアッサリがカンジンなのだ。

この場合、主人も園丁も神のこととして、「切り倒せ!」とこぶしを振り上げてヒステリックに叫ぶ神のおさまりの早さに驚くワケ。ちょっと、たしなめられると、「それもそうだな」とあっさりというか、いとも簡単にというか、かなりいい加減にというか、とにかく、単細胞的なのだ。その点、一度根に持ったら、振り上げた拳をなかなか下ろそうとしないどこかの親父さんとは、まさに、雲泥の差だ。当然といえば当然だが…。ハナシが横道にそれたが。

そうすると、いい加減な僕としては、「翌年実らなくても、マズ、切り倒されることはあるまい」と高(たか)をくくってしまうのだ。高をくくるといえば、あまりいい響きはしないが、きれいな言葉で言えば、信頼するということだ。もっと言えば、自分にも失望しないということだ。自分をむち打たないということにもなる。いずれにしても、これは、自己批判と自己否定で鍛えられたスジ金入りの信仰では許されない発想だが、健康な?信仰に至る王道と心得よう。やがて、あなたは、神が、愚かなほどに単純な父親としてあなたの帰りを待っていたことに気づくことになるからだ。しかも、あの手この手で、つまり、人や出来事を動員して、「肥やしをやって」手入れしていたことにも気づくのだ。それこそ、父の祈りそのもの。祈りながら待つ父。それこそ救いの保証。

こうして、地をあまねく覆う蒼穹(そうきゅう)の如く、果てしなく広くて深いたおやかな母親のような神の父性に圧倒されて涙することになるだろう。涙することはないとしても、あなたの人生が輝き始めること請け合いだ。何かコウ、ホッとしたというか…。実は、このホッ!とすることを救いという。そして、もはや、「滅び」などという恐ろしげな文言(もんごん)に踊らされて、思い詰めたような間違った熱心さに走ることもなくなるだろう。

そう言えば、モーセが見た柴に燃える火は柴を焼き尽くさなかったという(出エジプト記3,2-3)。父の愛の火は、あなたという柴、シツレイ、で燃えているが、あなたを焼き滅ぼしたりはしないのだ。

24時間営業の父を讃えつつ…。


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