傷ついた父の愛
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 13時53分
ルカによる福音15.11-32
ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、私がいただくことになっている財産の分け前を下さい』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩のかぎりを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人の所に身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父の所では、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここを立ち、父の所に行って言おう。「お父さん、私は、天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこを立ち、父親の元に行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、あわれに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いで、一番良い服を持ってきてこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰ってこられました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。しかし、兄は父親に言った。『この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子ヤギ一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが、おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。』
イエスのたとえ話の中で、おそらく最長のものではないか。イエスは、いくつかの未解決で、しかも深刻な問題を浮き彫りにしている。まず一つは、赦しの問題。
親不孝の次男をこんな風に迎える父親はまずいまい。誰もが、兄の肩を持ちたくなる。その兄の抗議は父親に通じない。兄は弟を許したか。簡単に許せるとは思えないのだが…。
今日は大勝教会での最後のミサだった。ミサ後のお茶の時間に、中国引き上げのYさんがきっぱりと言った。「当たり前という言い方は認められない。」彼女は、日本政府に大きな不満を持っている。「満州開拓に送り込んでおきながら、戦後の保証は何にもない。それどころか、月三万五千の生活保護でさえ、絶えずチェックされ、旅行などしようものなら、減額される。野菜を作って売ればいいと言うが、こんな年寄りに出来るわけない。中国ではそれなりの蓄えもあったのに、日本にだまされた。あたしは日本政府を恨んでいる!…」自分をだまし、不正のかぎりを尽くした日本政府を許すのは「当たり前?とんでもない!」というわけだ。
「あたしは絶対認めない!」次男の歓待は彼女にとって不公平すぎるのだ。いや、不正ですらある。それでも、この話の父親は、権力の元で小さくされたそんな彼女を、やはり説得するのだろうか。そのこと自体不正ではないのか?彼女の怒りに言葉を失った。そして、彼女の受けている国策としてのイジメに、やはり強い怒りを覚えた。うなづくだけの自分を恥じながら。
もう一つの未解決の問題は、父である神の愛が実感できない問題。
弟は、思いがけない父親の歓待を素直に受け入れただろうか。自分のやらかしたことの重大さを思えば、また、生真面目で親孝行の兄の事を思えば、手放しで父の歓待を受ける気にはなれなかったのではないか。自分を恥じ入るばかりではなかったのか。そして、自ら、歓待を辞退すべきではないのか。なのに、父の歓待を、すんなり受けたとすれば、ひどいヤツだと思う。
そんな思いは誰もが抱く思いではないのか。そして、それは、兄の思いにつながるのだが。その兄の姿こそ、「父の愛を実感できない」自分の中に深く根を下ろしているネ。
そんなこんな現実があるとして、イエスが紹介する父は、実は、「我に返って」くれるのを待つ父。国民の税金を無駄遣いし、弱い者イジメをやめない身勝手な日本政府が、わがままな人間が、理屈や常識に長けた心の堅い人間が、などなど。とにかく、あらゆる人が、その時その場で、「我に返って」真実を選び、素直に自分の非を認め、許しを請い、和解の道を開くように。父の苦渋の祈り。
そんな祈りが、自分の人生で何度も実った。もちろん、Yさんにも。だが、Yさんには、あの問題が未解決であるかぎり、手放しで、父の愛を喜べない。で、父主催の宴はまだ彼女のためにはなってはいないのだ。そこに、彼女の痛みがあり、父の痛みがある。
で、イエスが紹介しているのは、実は、傷ついた父の愛。神の傷み。