ピーターのミッションは海を越えて- とっておきの話し
作成者 admin
—
最終変更日時
2006年03月29日 13時55分
ヨハネ福音書10.27-30
「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことは出来ない。私の父が私に下さったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。私と父とは一つである。」
志布志から久々の発信は、Fr. ピーターです。ケンちゃんではなくてすみません。彼との出会いは、1984年の復活節。当時彼は二十 歳 の哲学生。マニラでの七ヶ月の研修を終えて帰国する前の一ヶ月間、ボクは北ルソンのベンゲット州、山の教会を巡ってのミサ奉仕。 時には片道五時間の徒歩。道案内と通訳、そして英語での説教の添削。ピーターは苦楽をともにした?ボクの秘書役。帰国後、小教区上げての支援の甲斐あって?八年前晴れて司祭に。一年の休暇の残り二ヶ月を是非ボクと過ごしたい、との熱い思いが叶って4月22日に再会。
今日は多くのフィリピン人妻たち(11人+子供たち)が母国語と英語での説教に、「血圧も下がったわ!」と大喜び。地元の信者併せて50 名余。復活祭よりも多くの信者で小さなお御堂は、超窮屈。主任司祭もハッピーハッピー!ミサ後は、エレキギター肩に即席ピーターバンドの演奏会。「国が恋しくなることもあると思うが信仰を大事にして欲しい」と励ます言葉に泣きながら肯く姿も。まさに、ピーターのミッションは海を越えて、でした。
日本のみなさんには、「オハヨウゴザイマス。」デイビッド(注)には「GOOD MORNING!」フィリピンのみなさんには「○×△□…」
まず、一つのお話で始めたいと思います。
シリアを旅した人の話です。彼は、たまたま、小川で羊の群れに水を飲ませている羊飼いたちに会いました。はじめの羊飼いが、「おいで!」と呼ぶと、その人の羊たちはすぐに水飲みを止めて彼のもとにやってきました。二番目の羊飼いも同じように、「おいで!」と声をかけると、その人の羊たちは、同じようにやってきて彼に従いました。すると、今度は、旅の人が三番目の羊飼いに尋ねたのです。「あなたのターバンと外套を私に貸してください。」そう言ってターバンを頭に巻き、外套を身にまといました。そして、大きな声で言いました。「おいで!」けれども、彼の声に注意を払う羊は一匹もいませんでした。旅の人は尋ねました。「ということは、あなたの羊はあなたの声にしか従がわないということですか?」「そうです。でも、病気の羊だけは誰にでも従うのです。」
実のところ、羊と比較されるなんて嬉しいものではありません。どうしてかと言うと、羊というのは、臭くて、汚く、鈍な動物だからです。でも、私たちは、羊ほど悪くはないのでしょうか?確かに、洗礼の時、神様は私たちをすべての罪の汚れから清めてくださいました。でも、私たちは、清くされた魂で何をしたというのでしょうか。それを清く保つのでなく、あらゆるたぐいの罪で汚してしまったのです。
羊は鈍な動物です。自分を守れず、羊飼いに頼り切っています。羊飼いや牧羊犬がいなければ、どこまでも歩き続けてやがて道に迷ってしまうのです。でも、彼らは、病気でないかぎり、少なくとも、主人の声を知っていて、そして彼に従うのです。
私たちは、子供の頃から、パパ様や、司教様や、そして神父さんたちから、羊飼いであるイエス・キリストのみことばの説明を受け、生活の場に生かそうとしてきました。でも、私たちは彼の声に従っているでしょうか?しばしば、その声に従うのではなくて、自分のわがままなやり方を貫いているのです。「それで、どうなの?」とよく言います。「よく知っているよ。もう、成熟した大人なんだから。」私たちは、鈍な羊よりもなんと鈍なんでしょうか!
一時の誤った幸せを売る人たちがいます。テレビ説教をする人や、いわゆる「何とかの癒し」とか言ったたぐいです。欲望の福音を声高に説き、楽しめ、今は金がすべてだ、と教えるのです。なぜなら、人生は短いのだから今の内に楽しまなくっちゃというわけです。
昨年の二月、フィリッピンのオルランドロ・ケベド大司教は、沢山のフィリッピン人信者が教会を離れたと述べられました。多くの人々が、原理主義の教えに従ったのです。彼らの教えは安易な道です。イエスを自分の主、救い主として受け入れさえすれば救いを得ると言うのです。いや、すでに地獄から救われている、というものです。
カトリック教会は、これとは違って、もっと難しい道を教えます。それは、イエスが教え、示し、そして歩まれた道そのものです。つまり、沢山の犠牲や苦難を伴う十字架の道です。
私たちは、私たちの羊飼いの声を知ってはいます。でも、彼に従っているでしょうか。それとも、私こそ羊飼いだと呼ばわって、イエスが示されたのとは違う道を行くように促す人々についていこうとしているんでしょうか。シリアのあの羊飼いが言っているように、ただ病気の羊だけが誰にでもついていこうとするのです。私たちは、他の声に耳を傾けてそれに従おうとする病気の羊なんでしょうか?
注:デイビッドのこと イギリス人。地元出身の奥さんと四人の子供の父。毎朝のミサに来る唯一の信者。18年も日本にいるのに日本語が話せない。で、毎朝のミサは英語。ベンキョウになります。