キリストの聖体-人々を養うイエス
5000人もの人が養われたという奇跡の話しは、イエスがいかに遠くにいるように感じようとも、あの時の様子からしてとても起こりそうにないと思われようと、そのことは本当に起こるんだという約束を私たちにしているのです。
キリストの聖体の祝日を祝う時、地上の巡礼をしている私たちに、イエスが日々ご自分を表してくださることを祝うのです。聖体の糧は、私たちの生活を日々支えてくれるものです。それがないとすれば、救いの道を行く私たちにとってかけがえのない神の恵みの一つを欠くことになるのです。
以上のことは、霊的に言って、ご聖体とは何かということなんですが、では、実際にはどういうことになるのでしょうか。
今日の福音を読むと、弟子達は、食べ物を各自で取るために人々解散させるようにと言っています。イエスは、彼らに「まず、あなた方が食べ物をやりなさい」と言われます。弟子達が、「そんなこと出来ません」と不平を言うと、彼は自らそのために動き始めました。私たちの神のなさり方とはそういうものです。
イエスは、いつもご自分から手を貸そうとされます。つまり、私たちを捨て置くことをなさらず、霊的旅路を行く私たちにひもじい思いをさせたりはなさらないのです。イエスはいつも私たちの信仰生活の向上のために心を砕き、救いにとって妨げとなるものを乗り越えることが出来るように私たちを助けるのがご自分の役割だと決めておられるのです。
これは、私たちのあらゆる心配事が取りさられるということを意味しているのではありません。罪を犯すということは、私たちの信仰を試す沢山の試練がいつもあるということなのです。それはつまり、私たちの心配事をイエスにすっかり委ねるなら、一緒に担って歩いてくださるということなのです。イエスは必ずしも私たちの心配ごとをすっかりなくして下さるというわけではありません。けれども、私たちが心配事にさらされるとき、間違いなく一緒に歩いてくださるのです。私たちの救い主は、私たちの弱さや限界をよく分かっておられますし、だから私たちと一緒にいたいと望んでおられるのです。
で、今日の奇跡は、食べ物のことだけを言おうとしているのではありません。神のなさり方を教えたいのです。イエスは、私たちおために心を砕かれるだけではなく、ミサの中で、私たちの食べ物そのものにさえなってくださるのです。私たちとのイエスのこの一体性は、彼におできになる最高のなさり方なのです。おん子を私たちの購い主として送って下さる以上の神の献身を求めることなど出来やしないのです。