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祈りは無駄だった-それでも笑えるか

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 14時03分

今週の聖書

創世記18.20-32

その日主は言われた。
「ソドモとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は下っていき、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びの通りなのかどうかを見て確かめよう。」
(略)
アブラハムは進み出て言った。
「まことにあなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしてもそれでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために町をお許しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずがありません。全くあり得ないことです。全世界を裁くお方は正義を行われるべきではありませんか。」
主は言われた。
「もし、ソドムの町に正しい者が五十人いるならばその者達のために町全部を赦そう。」

「45人いれば…40人いれば…30人…20人…」
「もしかするといると十人しかいないかも知れません。」
主は言われた。
「その住人のために私は滅ぼさない。」

今週のポイント鹿児島で署名・嘆願運動が展開されたことは、まだ、記憶に新しい。
神さまに届いた嘆願はそんな生やさしいものではなかった。
だれが送ったのかは知らないが
最悪の場合は町全体が滅ぼされるかもしれないという前代未聞のものだった。

ソドムとゴモラ
アブラハムと分かれて暮らすことになった甥ロト一家が選んだ
肥沃な低地の町だった。(創世記13章参照)

署名運動の話しを聞きつけたアブラハムの必死の嘆願が始まった。
事を荒立てない善良そのもののアブラハムとしては珍しく
事を荒立てて神さまに迫った。

祈れば祈るほど自信を失うアブラハム。
値切りに値切って、「十人」で手を打ったのがいけなかった。
どうせなら、「一人!」まで行けば良かったのにと思う。

あろうことか、結末は、町全体が滅ぼされたのだった。
ロト一家だけはかろうじて難を免れたのだが…。

この話は、「執り成し手」としてのアブラハムを紹介しているのかもしれない。
これほど気安く神と語ることが出来たとしたら…。
知らんぷりしている神さまを突っついたり、袖を引っ張ったりして
強引に説得できそうな感じがして楽しくなる。
現実には
聞いているのかいないのかとりつく島のない神さまのポーカーフェース
がいつも問題なのだが。

アブラハム自身どんな感想を持ったのだろうか。
まさに、「天災だった!」と諦めたのだろうか。
それとも
「神さまなんてひどいわ。町全部を滅ぼすなんて!」
そうつぶやく妻サラに
「そうだな。分からないことばかりだね。
ま、他の人には気の毒だが、せめて、ロト一家が救われただけでも感謝しなくちゃ」
とでも言ったのだろうか。

ともあれ
それでもあなたが神を信じているとしたら
実はそのことが偉大なことなのだ。
「アイルランドではカトリックが未だに武装して戦っている。
そんなカトリックは信じられない。」
そう言い続ける知人の気持ちも分かる。
だが
あのソドムとゴモラにいてロトは神を敬うことを止めなかった。
そして
祈っても無駄だと言いたくなるとき
あるいは神などいないと感じるとき
必死の執り成しの祈りが徒労に終わったアブラハムが
何故「信仰の父」と呼ばれているのかを考える価値はある。

「それでも笑うこと」
ドイツ人によるユーモアの定義だという。


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