鍛錬は見て感動するのだが…
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 14時10分
ヘブライ人への手紙12,5-7, 11-12
皆さん、あなた方は、子供達に対するように
あなた方に話されている次の勧告を忘れています。
「我が子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
手から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
なぜなら
主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆鞭打たれるからである。」
あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。
神はあなた方を子として取り扱って折られます。
一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。
およそ鍛錬というものは、
当座は喜ばしい者ではなく、悲しいものと思われるのですが、
後になるとそれで鍛え上げられた人々に
義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
だから萎えた手と弱くなったヒザをまっすぐにしなさい。
まるで高校球児に贈る言葉のよう。
鍛え上げられて甲子園にのぞみ、そこで繰り広げられる青春のドラマには
誰もが感動したにちがいない。勝利の歓喜に輝く姿にも、唇を噛み、涙する姿にも。
だからと言って
突然の不幸に会って希望を見いだせないでいる人に
「神があなたを鍛えているのです」とは言えない。
しかし
少なくとも「神を信じている」者にとって
このみ言葉は重たく受け止められなければならない。
鍛錬の意味を頭で理解し、高校球児達に拍手を送ったとしても
「自分の鍛錬の時」を見過ごしている信者(信徒と限定していないことに注意)は多い。
どんな不幸にあっても、どんな不利益を被ったとしても、どんな無理解に会っても
仲間内の思惑、独りよがり、打算、不平、不満、悪口の数々
これらが軽々に認められていいはずがない。
ヘブライ書のみ言葉を踏みにじることになるだけでなく
神の心を踏みにじることになるからだ。
ということに何とか気づいて
「神の鞭は痛すぎる~!」と一人叫んで誤魔化せたら!。
そうしたら
「義という平和に満ちた実」が手にはいるのだが。
「義」というのは「筋道が通る」という意味であって、
不思議と、一人納得してしまうのだ。
一人合点。そう、他人の同意など不要。これこそ「平和に満ちた実」。
今日、
神はあなたを狙っているかも。
あなたの「萎えた手と弱くなったヒザを真っすくに」するために。