神の回心
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 14時16分
出エジプト記32,7-14
主はモーセに仰せになった。
「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、
早くも、
私が命じた道からそれて、若い雄牛の鋳造を造り、それにひれ伏し、いけにえを捧げて
『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』
と叫んでいる。
…………
私はこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。
今は私を引き留めるな。
私の怒りは、彼らに対して燃え上がっている。
私は彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
モーセは主なる神をなだめて言った。
「主よ、どうしてご自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。
あなたが大いなるみ力と強いみ手をもって
エジプトの国から導き出された民ではありませんか。
どうかあなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。
あなたは彼らに自ら誓って
『わたしはあなた達の子孫を天の星のように増やし
私が与えると約束したこの土地をことごとくあなた達の子孫に授け、
永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。
主は御自身の民に下すと告げられた災いを思い直された。
聖書には厳しい規則集もあれば、詩編もあり、喜怒哀楽に富んだ神さまのお話も随所に見られる。
戸惑うこともあるが、
こうした変化に富んだ聖書の多面性は、
神さまと向き合う人々の信仰の表し方の多様さによる。
つまり、
ある人々は神さまと向き合う時にきちんとした態度で関わりたかったので
多くの規則を作った。
ある人々は、喜び、感謝、賛美、悲しみ、苦しみ、反省などを
自由奔放に詩に詠んで祈りとして捧げた。
またある人々は、まるで肉親と語るような親しさを神に感じながら信仰を全うした。
今日の第一朗読は正にこのたぐいの人々の作品と言える。
前置きが長くなったが、神さまをこのように描写できる信仰はうらやましい。
まるで、単純で気ままな殿様と「まあ、まあ、殿、殿…」と言ってなだめる家老の図ではないか。
カッとなると前後不覚、我を忘れてしまう殿をなだめる家老。
殿の怒りはもっともであるが、だからと言って
臣民の殲滅(せんめつ)を決断されるとはなんということ。
殿の怒りが天に達しようともびくともせずに
諄々と諭す家老。
やがて冷静さを取り戻し前言を翻す殿。
老練さを越えて、殿の盤石の信頼を得ている者の落ち着きと風格すら感じる。
民と殿の間を見事に取りもつ家老。
神を回心へと導く?モーセ。
あなたがキリスト者であるなら神とのさらなる親しいお付き合いを
そして自分の弱さにめげずに他の人々のために祈れる大らかな信仰を。
あなたが普通の人?であるなら
家族を第一としながらも、なおかつ身近な人々や困難に立ち向かう人々のために
神よ、お力と希望となぐさめを!
と祈る人になることを祈念しつつ。
神の回心=神の親心=神の恵みがあなたとあなたが祈る人々を新たにする。