宗教は平和をもたらさない!?
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 14時23分
ルカによる福音17,11-19
イエスは、エルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
ある村にはいると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、
遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて
「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください」と言った。
イエスは、重い皮膚病を患っている人たちを見て
「祭司たちの所に行って体を見せなさい」と言われた。
彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
その中の一人は、自分が癒されたのを知って、
大声で神を賛美しながら戻ってきた。
そして、イエスの足下にひれ伏して感謝した。
この人はサマリア人だった。そこイエスは言われた。
「清くされたのは十人ではなかったか。
他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、
神を賛美するために戻ってきたものはいないのか。」
それから、イエスはその人に言われた。
「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
「この外国人の他に」というイエスの言葉からして、他の九人はユダヤ人だったに違いない。
外国人とは、ユダヤ人以外の人、つまり異教徒。
イエスを落胆させたのは
神を信じるユダヤ人たちが、「ひれ伏す」どころか
「神を賛美」することも、神に「感謝」することもしなかったからだ。
異教徒にも劣るユダヤ人たち。
そんな言い方は正しくないかも知れない。むしろ、
「神を信じるユダヤ人たち、あなた方が卑しんでいる異教徒を見よ。
神を賛美し、ひれ伏し、感謝した異教徒を見よ。」
そんなイエスの思いが感じられる。
「あなたの信仰があなたを救った。」
異教徒は、いわゆる「未信者」ではないのか?
未信者に信仰を認める事が出来るのか?
イエスのこの視点にもっとこだわると…
ユダヤ教という宗教に属することと神を信じることとは
必ずしも同じではない、ということか。もっと言うなら、
宗教に属する信者と宗教に属さない信者がいる。
洗礼という手続きを済ました信者と手続きを踏まない信者がいる。
「神父という名の未信者もいる。」
あ、もうよそう。
ともあれ、「宗教」にこだわる余り、
「聖戦」という恐ろしいことを思いつく現実を見る時
「宗教」に希望はない。
宗教にこだわる限り世界に平和は来ない。
ユダヤ教という宗教にこだわらないイエスの視点こそ福音。
イエスのもとに駆け戻った外国人こそ
宗教を越えて福音を生きることを呼びかけるイエスの仲間。
あなたがカトリックという宗教の信者なら、ご用心。
教会があなたを信者として認知することと、
イエスが認知するかどうかは別問題らしいから。