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どっちでもないのだが…

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 14時26分

今週の聖書

ルカによる福音18,9-14

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して
イエスは次のたとえを話された。

「二人の人が祈るために神殿に上った。
一人は、ファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神さま、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、
また、この徴税人のような者でないことを感謝します。
私は、週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神さま、罪人の私を憐れんでください。』

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、
この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

今週のポイント自分に言われた言葉のようにも感じるが、人ごとのようにも響く。

人ごととして聞くと、
あのブッシュ大統領の顔が先ず浮かぶ。
世界の警察官を自認し、強い国ばかりを強調する彼にとって
「憐れんでください」等という祈りは思いつきもしないだろう。

自分のこととして聞くと、
ファリサイ派の人のような祈りをしたことがないから、ボクには当てはまらない。
「主よあわれみたまえ」はミサごとに祈っている。罪人を前提にした祈りなので、これは当てはまる。
しかし
うぬぼれたことがないかというとそうでもない。
他人を見下したことはないかというと、ないとも言い切れない。
たとえそうだったとしても、何万回となく「主よ、あわれみたまえ」と祈ったことで
チャラにしてもらっている感じもする。

聖書の本文に戻ると、登場人物はファリサイ派の人と徴税人。
一方は模範的市民の旗頭。
一方は、罪人の旗頭、簡単に言えばならず者。

この構図はどこか新鮮。
そうなのだ
ブッシュとオサマ・ビン・ラディン。
正義と自由。民主国家の旗頭として世界を手玉に取るブッシュ。
富豪の社会を捨てて義勇兵となり、貧苦に身をさらして英雄となったビン・ラディン。
しかし米国は殺害し、殲滅すべきならず者と呼ぶ。

二千年前イエスは叫ぶように説いた。
「お前たちは、徴税人、徴税人と卑しみ、罪人、ならず者とさげすむ。
異教国ローマの手先となって働くことがいいこととは思えない。その気持ちは分かる。
彼ら自身も、そう思っているに違いない。
だが、今更止めるわけにもいかない。その勇気もない。家族も養わないといけない。
かれには、胸を打って『憐れんでください』と祈るしかないのだ。
お前たちは、そんな徴税人の哀しみを聞いたことがあるか。
第一、私の父である神は、そんな徴税人を軽蔑すると思うか。
世の矛盾、不正義、様々な悪。
そんな現実に、誰よりも心を痛めている神。いや、
『そんな現実に押しつぶされずに、人間としての品位を失うことなく生き抜いて欲しい』
と祈っているのが父である私の神。お前たちの神なのだ。」

「アメリカだけが一人勝ちして富を独り占めにしている。我々も一緒に繁栄したい。」
人々の哀しみに触れようとしないブッシュの祈りを神は義とされない。


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